違っていて、しかも一緒。
新型コロナウイルスが世界を席巻して長い。
この間、他者と時間や空間を共有する「密」を自粛する生活が続く。人々は一緒にならないよう、場所を「分散」し、時間を「ずらす」などの努力を重ねてきた。
つまり、私たちはいま、「それぞれ」で「違う」ことを目指している。
これは、「まわりに合わせよう」「人と違うのが怖い」「なぜ同じようにしないんだ」といった同調圧力が強いと言われる、私たち日本人の苦手なことではないだろうか。
どうも「それぞれに違う」を認め合うような価値観が求められている気がする。
「身体がある」という
コミュニケーション。
コロナによって加速された現象の一つにリモートワークがある。
以前から、僕のまわりには「在宅の仕事」に憧れる人が多かった。が、いざ実現すると、意外な心配ごとが出てきた。それは、
「サボってると思われてないか不安」
というもの。
昨年受講した、企業のリモートワーク導入に向けたウェビナー(WEBセミナー)でも、
「導入を始めた企業様からの相談で多いのが、『リモートワークだと上司や同僚からサボっていると思われていないか不安に感じる』という、多くの社員からよせられる声です」
との説明があった。
このことは、僕には驚きとともに、とても納得のゆくものだった。
この不安には、正当な理由がある、と。
リモートにより、時間と空間を共有する “場” がなくなる。そうすると、少なからぬ人が不安を覚える。
目の前で共に働いているわけではないので、ときおりのオンラインミーティングで画面越しに顔を見たり、上がってくるデータで仕事の “痕跡” を知る以外は、彼・彼女らの普段の存在を感じることができない。何をしているか分からない。
同様に、私自身もまわりからどのように思われているか分からない。
それは、体を同じ場所に置けないことが生む、新しい不安。
集まりの場から自分が席を外したときに、残ったメンバーが私の悪口を言ってるんじゃないか、と感じるのに少し似ている。
僕にも、その気持ちは分かる。
私たちは、私たちが思う以上に、「体がある」ということだけで、こまめなコミュニケーションを可能にし、成立させていた。
目線や、表情や、姿勢や、声のトーン、それらは、私や、彼・彼女の状態を無言のうちに雄弁に語る。誰かが異変をキャッチすると、「どうしたの?」と声をかけてくれる。
いわば、それは “自動的” になされるコミュニケーション。それはお互いの存在を確認しあうもの。
私たちは、その消失による不安を生きている。
前述のウェビナー講師は、「こまめなコミュニケーションと、それを可能にするアプリ(自社商品)がそうした不安を軽減します」と話していた。
体を同じ場所に置けない、ということは、こうしたコミュニケーションへの意識的な努力を必要とする。
少なくとも、それが「商品」として売られるほどには。
共通性という土壌が
多様性を開く。
そうしたことを思うとき、コミュニケーションが絶たれることによる不安は、僕には正当なもの ──もう少し正確に言えば、人の自然な症状であろうと思われます。
そしてそのことで、かえって、「人はみんな一緒なんだ」と思えたのです。
人は、同じように不安を感じる生き物だ、と。
このことは、「それぞれ」「違う」を目指すなかにあって、いまや希少になった「みんな」「一緒」という感覚をもたらします。それはとても大切な感覚。
なぜなら、本当に何も分かち合うものがない存在と、人が相互に認め合うのは難しいから。
「それぞれに違う」を認め合うような価値観は、私たちは「同じような存在である」という底の認識、見かけを超えた共通性によって、初めて持ち得るのではないか。
ある種の共通の土壌のうえに花開くのが、多様性ではないか、と。
そういう意味で、共通の足場を持たずに「それぞれに違う」を認めようとすることは、一種の離れ業と言えそうです。それはアクロバティックに過ぎる。
不安は、私たちのそうした無理を見逃しません。どこからともなく、やってくる。
だから、意識的なコミュニケーションが必要です。「一緒」を見つけるために。
コミュニケーションには確かにメンドクサイ側面もあります。
うまくいくとは限らない。繰り返されるトライ&エラー。
でも、だからこそ、それはいつしか、不安とは対局の「信じる」意志を私のうちに育んでくれる。(そこでは、仕事を している/していない、といった「確認」はいまよりずっと緩やかになり、「管理」する方もされる側も、気持ちのよい関係性のうちにあります)
そのとき、私たちは、いまより少し、成熟した存在になれるかもしれません。それは果敢ない、けれども決して無駄に終わることのない、私たちの歩み。
同調圧力を超えて、個人主義を超えて、そして───。
人には多様性と同じくらい共通性がある。
違っていて、しかも一緒。
一緒だからこそ、それぞれ、でいられる。
そんな意識が芽生えたら、素敵だと思う。
文:可児義孝 絵:たづこ
tabinegoto#21