誕生日より先に、あなたの存在がある。

妻の実家に行くと、さまざまなものの裏に、

「昭和○○年、○月、○日、○○○○(名前)」

と書いてあった。
新しいモノにはない。古いものにだけ書いてある。
その文字を見ていると、なぜか懐かしい気持ちになる。

もののない時代、きっとそれらは、たいへんな喜びとともに家に迎えられた。
歓迎された、ものたち。
だからこそ、そこに購入日(受取日)と購入者(寄贈者)の名前が書かれたのだ。それは祝福の印。

いまでは古くなったそれらは、年相応の風合いをもっている。機能性や現代のデザイン感覚からすると、とても優れているとはいえない。
そういう意味では、いまの私たちの生活の質の向上にはあまり寄与していないのかもしれない。

けれどもそれは、不思議と僕の心をあたためる。

そこにはアウラ(空間と時間から織りなされた独特の空気感。オリジナルにのみ宿るコピーできないもの。オーラ)が宿っている。
ものをとりまく時間や、当時の人の思いまでがそこに漂っているようだ。そんな不思議な存在感がある。
もしかするとそのうちツクモ神(長い年月を経て道具に精霊や霊魂が宿ったもの)になるのかもしれない。

現代のようにモノが溢れる前の時代、モノは大切なものだった。
それはモノ(目に見える具体的なもの)とコト(目に見えない抽象的なこと。体験)が重なったような存在だったのかもしれない。

「これからはモノよりコトの時代」

ビジネスの世界でそう言われて久しい。
マーケティングもそこをつく。
モノの役目は終わり、コトという体験が商品化される。

僕はただ、モノがもの(モノ+コト)であった時代にノスタルジーを、遠い懐かしさへと心が惹かれてゆく、あの感覚を抱く。

「誕生日がある」それは、
かけがえのない存在の証。

現代、モノの価値は減じた。

そのことは断捨離のブームに象徴されるし、モノを極力持たないミニマリストを目指す人の多さからもわかる。
時代は変わった。
私たちは物質的な窮乏を克服したのだ。それ自体、素晴らしい達成だと思う。
ノスタルジーに浸ることはあっても、僕もやはり昔より現代の生活を好む。

私たちはもう、モノに日付や名前を書くことはしないと思う。それは豊かさ、なのかもしれない。

けれども、
昔も今も変わらず誰もが意識していることがある。

誕生日だ。

モノに購入日を記入しなくなった現代でも、自分の誕生日を知らない人はいない。
それは単に戸籍上必要だからという「管理」の問題ではない。
みんな知っている、誕生日は祝うものだと。私たちは授かった命を歓迎し、生まれ出ることを祝福されてきた。

大げさに言えば、かつて、ものはそうだった。だからこそ、そこに購入日と購入者の名前が記されていた。それはものの誕生日と親の名前なのだと思う。

いや、現代でも、その精神は物作りの世界で生きている。

職人が自らの作品に記名したり、名前や番号をつけることは多い。
手工業によらずとも、プロダクトにシリアルナンバーが刻まれることはある。多くは「製品管理のため」だろうが、そこにもコト(目に見えない価値)が息づいているのを感じる。
「一生に一度の買い物」と言われる住宅やビルなどの建物であれば、「○○年○○月竣工」「定礎○○年○○月」などのプレート、さらには石碑まで作られることがある。

それだけ私たちヒトは、「大事なものがこの世に生を受けた日」を大切にする生き物なのだろう。

だから、大切なのは誕生日ではない、私たちの存在そのものだ。
たとえ祝われない誕生日があったとしても、そのことによって私たちの価値が減ることは一向にない。

「私には誕生日がある」

それは、私たちがかけがえのないもの、尊い存在である証だ。

神聖も邪悪もともに、
スピリチュアルな存在。

一方で、モノが断捨離されるように、ヒトもリストラされる時代だ。
そんなときは「モノのような扱いを受けた」と悲嘆にくれたくなる。社会を呪いたくもなる。

モノはツクモ神となって祟(たた)るという。
ヒトの場合は、恨みを抱いて死ぬと怨霊になるそうだ。

僕らは誕生日を祝ったり、ヒトを呪ったりと忙しい。
それは私たちがスピリチュアル(霊的)な存在だから仕方ない。
スピリチュアルはそれ自体、善も悪も意味しない。神聖だし、邪悪だ。どちらにも転ぶし、どちらの要素も併せ持っている、矛盾した存在だ。

ただ確かなことは、どちらにしろ、僕らはモノを超えた存在だということ。

私たちが、かけがえのない存在であること。

そうでなければ、「怨霊」となってまで恐れられることはない。その恐れは「価値があるものを、価値がないも同然に扱った」その意識の裏返しだといえる。虐げたほうも、無意識にその価値を感じているのだろう。

どのような扱いを受けようと、私たちの価値は揺るがない。
たとえ、学校や職場が、そのことを忘れさせる現実として迫ってきても。

「モノ」から「もの」へ。
私たちにはその力がある。

モノが溢れ、モノの価値は減じた。
だが、地球にヒトが溢れても、ヒトはヒトの誕生を祝うだろう。
私たちはこれからも、誕生日を持った存在としてあり続けるだろう。
私たちは、

「令和○年、○月、○日、○時○分」

と、その誕生の瞬間まで明記された存在なのだ。
そのヒトの営みは、これからも変わることはない。

息子が今度小学校へとあがる。
学校で使うモノに名前を書く。それは「落とし物をしても大丈夫なように」だけではないのかもしれない。
モノを手に取り、ペンで名前を書く。その瞬間、それは「モノ」から「もの」へと生まれ変わる。また一つ、「大切なもの」が誕生する。

その一方で、ツクモ神も怨霊も、ひそかにその存在を増しているのかもしれない。
忘れてはいけないことは、その誕生の背景には、やはり人の存在があるということ。無から生じることはない。それらの産みの親もまた、私たち人なのだ。

人はそれだけのものを生む力がある。良くも悪くも。
自分や他者を大切にするうえでも、そのことに自覚的でありたい。

どういった存在に囲まれて過ごすかは、私たちの生き方にかかっている。

───妻の実家の古いものたちは、きっと幸せな時間を過ごしたのだと思う。

黒電話を愛おしむ男性

文:可児義孝 絵:たづこ

tabinegoto#14

Follow me!