神の子どもたちはみな遊ぶ。

「夢は?」と聞かれれば、「一生遊んで暮らすこと」と答える。

思春期の反抗心から、あるいはモラトリアムにただ漫然と思ったのではなく、大人になって、よく考えて出した答えだ。
もちろん、夜遊び、火遊び、女遊びの類ではない。最近よく聞く「遊びを仕事にしよう」的なものとも違う。お金も道具も要らない。意味するところは、

何事も遊びであるかのように、楽しめる人間でありたい。

ということ。

「遊び」には、
時間や空間の制約はない。

大人にとって必要に迫られてする雪かきは、いわば「労働」に近い。が、こどもはというと、始めこそ渋るが、やりだすと案外無邪気に楽しんでいる。
ゴミ拾いをすれば、こどもは誰が一番多く拾ったかを競っている。いつのまにか「ゴミ争奪戦」のゲームが始まる。
雑巾を絞るのも、床を拭くのも、バケツの水を捨てるのも、餃子の餡をこねるのも、それを皮で包むのも、食べるのも、皿洗いも、───彼・彼女らは楽しそうだ。
それは「遊び」にみえる。

そこには、大人のような打算はない。行為を「何かのため」に回収させない。それ自体を楽しんでいる。

大体、何が遊びであるのかは、人それぞれであって、特定の事物を指すことは難しい。
つまり、遊びは対象になく主体にある。
それならば、心一つで一切を遊びのように振る舞ってみたい。
そう、一言でいえば、「一生遊んで暮らす」だ。

「遊び」はこどもの、
そして、神様の、振る舞い。

文化史家のヨハン・ホイジンガは、非常にユニークなことを述べている。いわく、日本人は、

「高貴な人々はその行う全ての事を、常に遊びとして、遊びながらやっている」

その名残りは、私たちが現在使っている日本語のなかに、はっきりと確認できる。どんな日本語表現だろうか。
それは、そのままずばり「遊び」だ。高貴な人々の振る舞いを表現するのに、まさに「遊び」の語が用いられる。

「お召しあがり遊ばす」

「お帰り遊ばす」

「お姿をお隠し遊ばされる」

それは、日本語における最上級の敬語表現にみられる「遊び」。神や天皇等、神聖とも思われる最上位の存在に対してしか用いられることはない「遊び」。
だとすると、どうやら「遊び」はこどもどころか、「神聖な存在の振る舞い、それ自体」と言ってもよさそうだ。

僕らは遊ぶために生まれてきた。
それは僕の持論だが、遊ぶことは、「神の振る舞いに近づくこと」とも言えるかもしれない。

遊びは、
彼岸を求めない。
生の犠牲を許さない。
収穫を先送りしない。
この瞬間を最大限に味わい尽くす。
行為のただ中に喜びを汲み尽くす。
それは、こどもにも似た、無垢な生き方。

やはり僕は「一生遊んで暮らす」を目指したい。こどもたちを身近なお手本として、大人の僕も心ゆくまで遊ぼう。

ということで、この『旅寝言』、これもまた僕の楽しい「遊び」の一つです。「家の手伝いもしないで、またパソコン打ってる」と家族に言われるうちはまだまだ。「文章をご執筆遊ばされる」と言わしめてこそ一流です。
───なんて、そんな高等なものじゃないですね。どうか軽く流してお読み遊ばせ。

シャボン玉で遊ぶ女の子

文:可児義孝 絵:たづこ
(イラストは後日アップします!)

tabinegoto#25

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