あなたは贈与でできている。

ある晩、書籍を出版して間もない友人とオンラインで話した。
売れ行きも好調、amazonでの評価も高い。そんな彼に、私は言った。

「自分の文章が、空虚だと感じることがある」

友人は、「俺は、今回出版した本を、人前では『拙著』(せっちょ・自分の書いた書物をへりくだって言う語)って呼ぶけど、本当はその言葉を使いたくない」と応えた。
私はその意味を瞬時に理解した。そして、自分の文章を肯定する気持ちになれた。いや、それ以上に、申し訳ない気持ちになった。
自分の文章を貶めてはいけない。それは、失礼にあたるからだ。自分にではない。私が尊敬し、影響を受けた、多くの人に対してだ。

自分が書いたのではなく
書かせてもらったという感覚

友人は、言葉を続けなかった。私が彼のバトンを受ける。

「わかる。自分の文章は、自分が書いたもの 、ではない、よね。自分の文章を読み返すと、多くの人から受けた影響がはっきりと感じられる。
だから、自分が書いたというより、書かせてもらっているという感覚に近い。それが、自分の言葉か、他人の言葉かなんて、簡単に区別できないぐらい、分かちがたく結びついてる。それを『拙著』と言えてしまうのは、全部『自分が書いた』と思っているから。
読んだ本、尊敬する先生、刺激を与えてくれる友人、そうした存在のおかげで文章が書けてるのに、それを全部自分のものと言ってしまう怖さ。まして、引用文の著者へは敬意しかない。
そういうことを思うと、自分の書いた文章とはいえ、『拙著』とは言えないよね」

友人は、画面越しに大きく頷いた。

私は同じ理由で、天理教の教会の後継者(多くの場合、現職教会長の長男)が、自教会のことを「僕の教会は、ほんとに小さな教会で…」と表現するのを好ましく思えない。
それは、あなたの教会ではないと思うからだ。
あなたが苦労して作ったものでも、あなたの所有物でもなんでもない。それは、多くの先人・先輩の信仰的努力の結晶なのだ。
それを「小さな教会」と言ってはならない。たとえ、事実として規模が小さく、信徒数が少なくても、だ。

もちろん、「小さな教会」と言う後継者の多くは、謙遜や、単に時候の挨拶のような形式的な応答に過ぎず、私がいう意味で用いたりはしていない。それどころか、好青年が多い。
それでも、私自身は、決してそのような表現はしない。多くの人の支えがあって、いまの自分がある。それを思うと、絶対に口にできない。

私は、私の文章を空虚だと思うことがある。それは、事実だ。

でも、私の文章には、私が大切に思うもの、───それは家族や友人、先輩、先生(そのなかには当然故人も含まれる)はもちろん、会ったこともない本の著者、そして特に信仰上の恩師───からもらった言葉、思想、価値観、信仰姿勢が、有形無形を問わず現れている。それを誇ることはあっても、否定するつもりはない。それらは断じて空虚ではない。

問題は、それを書こうとする私の文章力のほうであり、決して扱うテーマや内容ではないと信じる。
書こうとするテーマと私の文章との距離に、私の生き方に、空虚を思う。
その意味で私の書いたものは「拙著」であり、同時に「拙著」ではない。

私が影響を受けた、それは、私が感動したという揺るがぬ事実だ。私はその感動を信じる。その価値を不当に貶めてはならない。誰だって、尊敬する人に失礼な態度はとらない。それは、自分のものであって、自分のものではない。贈与されたもの。受け取ったものだ。

私には世界がつまっている。

同じことは、私という存在そのものについても言えるかもしれない。

私は、私によって生まれてはいない。私によって存在してはいない。無数の贈与の、その果てに、私はある。

命の始まりから、新陳代謝を繰り返し持続する生命体としてのこの身体、人が生きるための環境(火、水、風、衣、食、住、───それは無数にあり、私の想像はとても及ばない)、人間関係、それはどれ一つ、私がデザインしてはいない。用意してはいない。それらは、私を生かす無数の贈与。
それを思えば、「私という存在は、私に依らない」、という事実に突き当たる。私たちは、生かされて生きている。

プレゼント(present)という言葉の語源は、ラテン語のesse(=to be)にある。つまりプレゼントとは「生きて・いる」ことであって、存在(presence)そのものが贈与であるということ。
(西村佳哲『自分をいかして生きる』筑摩書房)

───私という存在それ自体が贈り物である。
このことは、いい考え方だ、魅力的だ、文学的な表現だ、ということに留まらず、私には「事実そうである」と思える。

だから、私たちは「私なんて…」と思う必要はない。
「私」のうちには、無限の贈与がつまっている。
私は、あなたは、その無限の贈与の結果として、その最先端として、いま・ここに果たされている。
自分に自信がもてなくても、自分に影響を与えたもの、それが親であれ、先祖であれ、友人であれ、同僚であれ、好きなアニメであれ、なんだって、それら全てを否定することなんて、できっこない。

あなたは、あなただけでできてはいない。

あなたが大切に思うものが、あなたの中に流れている。

だから決して「私なんて…」と思わないでほしい。自分のなかに流れる、大切を見つめてほしい。そして、自信をもって生きてほしい。私たちはもっと自信を持っていい。それは自己のうちにある他者への信頼。卑屈になることはない。胸を張ろう。

私は、私の文章を空虚だと感じていた。これを続けて意味があるのか、と考えることも多い。けれども私は、私を信じることにした。それは、私に価値があるのではない。そうではなく、私を養い育んでくれた多くの人を信じることだ。
この文章も、拙文で、しかも最高だ。これからは、多くの人の読まれることを素直に望もうと思う。謙虚に、自信を持って。

地球の包装紙の中から顔を覗かせる少年

文:可児義孝 絵:たづこ

tabinegoto#26

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