不自由の女神

次の文章は、あるスポーツの定義です。何だと思いますか。

「自由をいかに獲得できるかという競技」

もちろんこれは正式な定義というわけではありません。一個人による見解です。ただし、そのスポーツの日本代表選手、さらには日本代表監督までつとめた人物による定義です。
ファンなら答えを知っているかもしれませんが、そうでない人には、なかなか難しいかもしれません。

答えは「ラグビー」です。
前述の定義は、ミスター・ラグビーと呼ばれ、日本ラグビー界を牽引した、故平尾誠二氏によるもの。シンプルで哲学的な定義にハッとします。

天理教の中山正善・二代真柱は、「天理教とはどんな教えか」と尋ねられたら「私を見てくださいと言えるような信仰者になれ」と述べたそうです。辞書的な説明をせずに、信仰者としての姿勢・態度をわずか一言で表わしています。

どうも、一流は一言で自身の仕事を表現するようです。単純化ではない。飾りを削ぎ落とし、本質を捉えている。あれこれ言わずシンプルな言葉で表現できるのは、プロの経験と自信、覚悟の力ではないでしょうか。
スポーツに限らず、人は物事の本質をつかむことで、より確信に満ちた歩みを続けることができます。

人は不自由をバネに
新境地を開く。

自由の追求、故平尾誠二氏はそこにラグビーの本質を見ました。
ということは、裏を返せば不自由なのです。なぜか。ルールが縛るからです。しかし、だからこそ人は工夫を凝らし、鍛錬を重ね、自己を高めることができます。

手を使えないサッカー。その制約が選手に美しいプレイを創造させる。
わずか十七音の文学、俳句。その限定が言葉の力を最大限に引き出す芸術を生む。
予算の限られた新規事業。その制限が人々の知恵を絞り、アイデアを洗練させ、イノベーションを加速する。
人は不自由をバネに新境地を開く。

目を転じると、私たちの実生活にも、身体的、経済的、社会的、様々な制約があります。

この身体があるゆえに、食事をせねばならず、休まねばならず、入浴せねばならず、つまり、自身をケアしなければならない。社会で暮らすがゆえに、稼がなければならず、好まざる人とも付き合わねばならず、人付き合いのマナーを守らねばならず、つまり、社会性を身に付けねばならない。それは見方によっては制約でしょう。

さらに、個別に見ると、さまざまな身体的特徴や、疾病、家庭環境、人間関係など、私たちは、多くの制約に囲まれています。なかには、それがために苦しい思いをすることも。もちろん、避けられるもの、逃げられるものを、必ずしも真正面から受ける必要はありません。生きるために、積極的に環境を「選び」「整える」ことは、何より大切です。

ただ、ときに、自分の力ではどうしようもない現実(比喩的に「節(ふし)」と表現します)も存在します。
それは、残念ながら選びようがない現実。私たちの選択の埒外。与えられた生。人によっては「運命」とも表現する何か。人は、この世界に投げ込まれている。
私たちは不自由なのです。

───でも、だからこそ。

ルール(制限)があるからこそ、人は工夫を凝らし、鍛錬を重ね、自己を高めることができる。
人は不自由をバネに新境地を開く。

───この「だからこそ」という意志、言葉を代えれば「にもかかわらず、勇む」という心の状態は、どこからくるのか。そのしなやかな姿勢、生きる強さをもたらすものは何か。
それは、「与えられた生を受け入れる」ことではないでしょうか。

戦うことをやめる。そこに、
不自由の女神が微笑む。

手を使い放題のサッカー、文字数無制限の俳句、天井知らずの予算を投入する新規事業。
そこに私たちの成長があるでしょうか。
人を魅了する美しいプレイや文学、サービスが生まれるでしょうか。

信仰は、私たちのこの日々を、神に与えられた舞台へと変えます。それは、不平や不満に身を焼かれることなく、自身の心と向き合う、極めて実際的な生きた智慧です。
さらにすすんでは、そのルール(制限)に込められた意味にまで思いが及ぶ。そうなれば、それは私を苦しめる「無味乾燥な現実」ではなくなります。そこに、私に向けられたメッセージを感得することができるからです。
そのとき、私はすでに歩みを進める力を得ています。

もしからしたら、傍目には相変わらずたいへんな境遇と映るかもしれません、それでも、私が苦悶にあえぐことはなくなっています。その姿は、当人にとどまらず、周囲の人にも自然と勇気を与える生き方として現れていく。

私自身の経験からいうと、こうした「受け入れること」ができた場合、肩の力が抜け、ラクに生きることができます。むしろ楽しくすらある。状況が変わっていなくても、です。それは「戦うことをやめた」から。「ルール(制限)を敵視することをやめた」から。
だからこそ、その中で、創造的に生きることができる。環境による不要な生の消耗をしなくてすむようになる。

そのとき私は、歯を食いしばって、辛抱して、ストレスに耐えて、必死に頑張る、そうした世界線とは、すでに異なる次元にいます。
新しい自由を享受しています。

そういう意味では、私たちは誰もが、「自由をいかに獲得できるか」ということを、自らが生かされ生きるなかに、試されているのかもしれません。
いや、「試される」は言葉が悪いですね。きっと、そこには、まだ見ぬ可能性が宿っている。制限があるからこそ、足を踏み入れることができる境地が、そこに浩々と広がっていると思うのです。

節(自分の力ではどうしようもない現実)から芽を吹く瑞々しい躍動。
それはきっと、不自由の女神の微笑みなのです。

不自由の女神

文:可児義孝 絵:たづこ

tabinegoto#27

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