「ごっこ遊び」が優しい世界を創る。

「今日は天気がいいし、苔玉を外に出すね」

そう言うと、自分で自分の言っていることが可笑しく感じられました。
天気がいいとは曇り空のこと。こどもと一緒に作った苔玉は直射日光が苦手です。だから、曇りの日だけ戸外に出します。苔玉の存在が、私にとっての「天気がいい」の内容を更新してくれたようです。

それは今までのものにプラスして新しい意味が加わったということ。これからは「晴れ」はもちろん、「曇り」も「いい天気」の仲間入りです。

手間暇かけるだけ、
世界は豊かな表情を見せる。

土をこね適当な大きさに丸めて指でくぼみをつくる。そこに用意した苗を植え、最後に採ってきた苔をぐるりと貼る。それを100均で買った皿に盛る。苔玉の完成です。
こどもたちは苔を採取するのも、土をこねるのも、苔を糸でくくるのも、終始嬉々として楽しそうです。
できた苔玉は週に一、二度、水を張ったバケツに沈めてたっぷり水を吸わせます。「元気にそだってね」と苔玉(こけだま)に言霊(ことだま)をかけることも忘れません。
こうして手間暇かけた分だけ、苔玉への愛着がわきます。愛着があるから、曇り空を見ると自然に苔玉のことを考えるようになります。

「今日は苔玉を外に出すと気持ちいいだろうな」

私はすっかり苔玉目線。
自分の中にこうした存在を持つことは、世界を見る目を豊かにしてくれるます。それには知識だけではダメで、大切に思う気持ちがいるかもしれません。そのことは「多様性」や「SDGs」と単に言葉に出すこととは違います。大切なのは、その存在が身近に感じられるということ。自分自身のなかに、たしかに「ある」ということ。

曇り空の下にちょこんと佇む苔玉を見ていると、どこか気持ち良さ気です。
それを見る僕の心も、やはり晴れています。

あんたにとって俺は
大勢いるうちの一人でも、
俺にはあんたしかいない。

それとは反対に、相手の存在が自分の中に根付かず、その目線を持てずに、とても悲しい思いをさせてしまったことがあります。

10年前、私は一人暮らしの60代男性のもとへ通っていました。最初ぶっきらぼうだったその方は、親しくなるにつれ様々な話を聞かせてくれるようになります。

数年前に脳梗塞になり半身不随の身となったこと。
それにより仕事を辞めたこと。
その頃は奥さんと息子と三人暮らしだったのが、ある朝目が覚めると二人の姿がなかったこと。
ありとあらゆる心当たりに連絡を入れるも、いっこうに二人の消息がつかめなかったこと。
数週間後に一本の電話が入り、そこで「あなたとの生活は続けられない」と奥さんに告げられたこと。
それが奥さんとの最後の会話、別れの電話となったこと。

「あいつは俺に気付かれないよう、息子と協力して俺のもとから夜逃げしたんだ。それがどれくらい悔しいか、あんた(筆者)には分からんだろ」

それから週イチの訪問介護とヘルパーをたよる生活が始まったそうです。
もともと社交的ではなく、いまでは訪ねてくれる人もいないといいます。
一人、介護ベッドに横になりテレビを見るともなく流す日々。音がないのに耐えられずつけっぱなしのテレビ。──孤独。

「そこへあんたがきた」

後遺症で満足に呂律もまわらないなか、そうしたことを語ってくれました。

私は月に2、3回、その男性のもとを訪ねました。身の上話もありますが、そのほとんどがあまり意味をなさない会話でした。それは「他愛もない話」です。私はその会話を通じて、その方に喜んでもらっていると思っていました。

ある日、いつものように訪ねると、いつものように「他愛もない話」が始まりました。そしてやはり、いつものように私が相槌を打って聞いていると、その方は急に激昂したのでした。

「可児くん、俺は前に来たときもこの話をしたんだけど、あんたなんにも覚えてないな。俺はあんたに話したことは全部覚えている。なんでかわかるか。それはあんたしかいないからだ。あんた以外に話す相手がいない。そのあんたと話したことは全部覚えてる。
あんたにとって俺は大勢いるうちの一人だろうけど、俺にとってはあんただけなんだ」

「あんたが来るのは嬉しいけど、帰ったあと、俺はさみしい気持ちでいっぱいだ。余計にさみしくなる。
朝一人でいると外から学生の声が聞こえてくる。通学途中の学生だ。俺は重たい身を起こして手すりをつたって、やっとの思いで窓まで行く。そしてカーテンを少しだけ開けて外を眺める。“人” を感じたいんだ。ただぼーっと眺めてる。そういう生活だ。…分かるか」

言葉が出ません。
その方の目を見ること、視線を逸らさないこと、逸らしてはけない。それが私にできる精一杯でした。

私はその方のことが何も分かってなかった。

相打ちを打つ、共感する、それを超えて、その身になりきること。そこからどんな世界が見えるか。私にはそれが決定的に欠けていたのです。

共感を超えて「なりきる」

大人の私に比べ、こどもたちはずっとたくさんの「目線」を持っているようです。

「ごっこ遊び」はこどもの大好きな、そして得意な遊びです。
かわいいキャラクターのぬいぐるみはもちろん、公園の蟻や、庭になる植物、はては太陽や山や川など、厳密には一個の生命とは言えないようなものまで、いろんなものになりきっています。
「○○ごっこ」の〇〇は、どんなものでも入る、魔法の容れ物のようです。

私はこどもと一緒に寝るとき、よく物語を即興で話すのですが(オムツの「マミーポコパンツ」をもじった「マミーとポコとパンツ博士」は我ながら傑作)、こどもらも同じように、私に創作物語を聞かせてくれます。そこでは、動物や自然や、あるときは冷蔵庫(無機物!)などが、生き生きと動き、話し、要するに「心」をもっているのです。

これは私の子に限ったことではなく、幼少期には誰もがそうした力、「なりきる能力」を持っています。こどもたちはときに見事に、そうした動物やものの心をとらえ、相手になりきり、相手の目には世界がどのように映るか、その目線にたって物語を紡いでいきます。大人の私は最近になり、「苔玉目線」を獲得したばかりですが、こどもたちは遥かに豊かな世界を生きているのです。

これは大人になって獲得した「知識」ですが(こちらはこどもに負けない立派な力と自負しています)、一般にアニミズムとは「自然界のそれぞれのものに固有の霊が宿る」という考え方と理解されていますが、本当はそうではなく「動物、植物、そして無機物を含めた自然に『なりきる』能力」を指すそうです。
どうやら「相手になりきる」ことと「そこに霊が宿る」こととは、表裏一体のようです。

「なりきる」それは「能力」です。そうしたことに対し、「未開の宗教」や「幼稚な世界観」とレッテルをはるのは簡単です。けれども、もしかすると私たちはそうした「能力」を失ってしまった、退化してしまったのかもしれません。
相手になりきること、相手の目に、心に何が映るか、それを自身のことのように経験する能力。それがために私たちの社会や日々の生活、人間関係が豊かになることはあっても、貧しくなることはなさそうです。

身の回りの人間関係を見ていると、どうもこの「なりきる能力」がないばかりに悲しい思いを させる / している 人がたくさんいるように思えます。

同調する、共感する、理解する──それを超えて「なりきる」こと。
その存在が私自身のなかに、しかと感じられること。相手のなかに私自身を送り込むこと。それは対象に「霊性」を認めることです。
それは一見とてもむずかしそうですが、こどもたちを見ていると、案外私にもできるかもしれないと思います。
価値観が固まり、善悪のモノサシを持つ大人だからこそ、ときに「○○ごっこ」を楽しむ余裕が大切かもしれません。

それはきっと、私たちの世界を文字通り「豊か」にしてくれる、忘れられた通路なのです。


まどろむ白猫

文:可児義孝 絵:たづこ
(イラストは後日アップします!)

tabinegoto#32

Follow me!