何もないから、すべてがある。
私は教会の神殿に掲示物が貼られているのが好きではありません。
たとえ信仰活動に関するものであっても、です。
各種行事の案内、活動指針、教会によっては具体的な数値目標を掲示している場合もありますが、やはり私は好きではありません。
これは私の個人的な思いですが、神殿には何もないのが一番です。
そこにあっていいのは、神様と自分と。
社会には情報が溢れています。その情報から離れて、神様と自分との時空間を持つこと。それが神殿の意義だと思うからです。
神殿は広報の場ではない。
何もないことに意味がある。
会社、学校、地域など、私たちがひとたび社会へ出れば、そこでは様々なスローガンや、目標、ノルマなどが個人に課されます。
そんな喧騒を離れ、落ち着いた時間のなかで自己と向き合う。私を取り巻くさまざまな観念からいったん離れ、心身をリセットする。
信仰においては神を通して自己を見つめる。心を澄ましていく。その大切な場が神殿です。
日常から離れて静謐な時間をもとうと一人静かに神殿に足を運ぶ。
そのとき、ぐるりには様々な広報物 ──成果が強調された活動報告、目を引くカラフルなイベント案内、教会が掲げる数値目標── そうしたものが否応なしに目に飛び込んでくる。
──そこにもまた一つの社会がある。世間と変わらない社会が。
私にはその光景がなんだか寂しく映ります。
神殿には神様がいらっしゃる。その他に何がいるのか。組織の営みを持ち込むことで、神殿が狭隘な空間に貶められているような気がします。
現に、天理教教会本部の神殿には何もありません。そこにはただ、礼拝目標と、そこへ詣ろうとする参拝者のための空間が広がるばかりです。そしてやはり、その何もないことに私は安心を覚えます。
イスラムの聖地・カーバ神殿、カトリックのサン・ピエトロ大聖堂など、世界の聖地を見渡しても、そこに広告があるのを私は知りません。本質的にはそれは必要ないのです。何もないことが、よりその聖性を高めている。そのことにより人は日常のノイズを離れ、神と自己とに真摯に向き合うことができる。
神殿でイベントの告知ポスターや入会案内があっては興醒めです。もちろん、そうした情報は適切に提供されなければなりません。でもそれは神殿の内部空間を離れ、外部に出てからでいいはずです。
神と私のほかに何もない。だからこそ、日々の生活で浮き沈みする心の表面に現れた波を鎮め、普段意識することない微細な心の動き、心の深奥へと意識が深まっていくのだと思います。
無音のなかに響く音。
アメリカの音楽家ジョン・ケージ(1912-1992)が、繰り返し語る体験があります。
彼は完全な沈黙を体験しようと、1951年にハーバード大学の無響室(外部からの音を遮断し、さらに音の反響を吸収する素材で部屋全体を囲むことで、残響時間をほぼゼロにした特別な空間)を訪ねました。
しかし、そこで彼を待っていたのは予想を遥かに超えた出来事でした。
あらゆる音を遮断したはずの自身の耳に “何か” が届く──。
彼の耳がとらえたのは、自身の内側に流れる「血液の流れる音」と「神経系統の音」という二種類の音だったのです。
沈黙は存在しない。
彼はその認識をもとに、20世紀の音楽史を塗り替える作品を生み出していくことになります。
私はとても感動的なエピソードだと思いました。
音楽家が無音を体験しようと求めた先で出会ったのは、途切れることのない音、自身の内から湧いてくる音だった。私たちは音と共にある。生きている限り。生きていることは音を鳴らすことなのです。
ジョン・ケージは無響室で命の音と出会いました。
神殿もまた、そうした場所であってほしいと願います。
耳を澄ませないと聴こえない内なる音がある。普段意識されることのない大切な何かと出会える。
何もないからこそ、すべてがある。そこから新しい生が始まる。
そうした場所であってほしいと。
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(様々な事情により、神殿に情報媒体や物品を置く教会は数多くあります。本稿はそれを批判するものではありません。私が勤める教会の神殿にも掲示物はあります。それぞれが置かれた現実を肯定しつつ、一つの理念としてご了承いただければと思います)
文:可児義孝 絵:たづこ
tabinegoto#33