僕らは遊ぶために生まれてきた。

生きる目的とはなんだろう?
人はなんのために生まれてきたんだろう?

こうした問いに、あなたは、なんと答えますか。

「そんなの答えようがない。そもそも設問が間違ってるんだ」

なるほど。そうかもしれません。こんなこと、答えようがない。でも、私は決まってこう答えます。

僕らは遊ぶために生まれてきた。

これは、ロジカルかつマジカルな “答え” なのです。
至極順当で不思議な結論。それは、答えのない問いへの断定。私の一番のお気に入りです。

「分かる」は線を引くこと。
whyは永久に続く。

私たちのいかなる問いにも、およそ、答えなんてないのです。あるのは、どの時点で納得するか、それだけです。最終解答は得られない。どういうことか。

答えが「分かった」と思った瞬間、私たちは、線を引きます。「分かった」とは「分ける」こと。なにを分けるか。既知と未知を分けるのです。それは「分かった」というライン。その分かつ線の内側に立つこと、すなわち、既知の部分で満足することが「分かった」という状態です。それは、安住の地かもしれない。だが、依然として未知の領域は残っている。そこをさらに追求するのであれば、「分かった」は暫定的な解であるとの自覚に立つ必要がある。それを手がかりに先に進む。分かつ線を踏み越えていく。

たとえば、光合成。光合成とはなんであるか。おそらく、多くの人がこう答えます。
植物が、水と二酸化炭素と日光から、デンプン等の養分と酸素をつくること。

正解。テストであれば◯をもらえる。それでおしまい。それ以上はない。なぜなら「分かって」しまったから。そこから先へは進めない。満点なのですから。
でも、さらにつっこんで、「どのようなメカニズムにおいて、それは可能なのか?」と問われた場合、多くの人は口をつぐみます。そこは未知の領域だからです。そして、そのメカニズムを解明したところで、また新たな疑問が生じる。さらにつっこんだ質問が出てくる。

つまり───我々の問い「Why」は永久に続く。

だから、「分かった」というのは、ある種の納得にすぎない。このことは、「分かった」を否定しているのではありません。「分かった」の性格を素描しているのです。手持ちの「分かっていること」を便宜的に使い分ける、それによって、私たちは暮らしていける。

科学の力で問題を一つ解決しても、必ず、新たに10の問題が生まれる。(バーナード・ショー)

けだし、名言です。
では、なぜ私は、それでも、「僕らは遊ぶために生まれてきた」と言うのか。

“遊び” だけが問いを遮断する。

理由はシンプルです。

遊びだけが、その永久とも思えるwhyを遮断できるからです。
遊びだけが、その問いを封じることができる。決着をつける。

なぜなら、遊びは遊びそれ自体が目的だからです。なんのために遊ぶか。そんな質問はナンセンスです。遊びは、ただ遊ぶためにある。私たちはなにかのために遊んだりしないのです。それはこどもを見ていればわかります。楽しいから遊ぶ。遊びたいから遊ぶ。それ以上も以下もない。

なかにはこう言う人もいます。

遊びを通して社会性を身につけるんだ。
遊ぶことで心身の健やかな成長を促すんだ。
遊ぶことで───

でもそれは大人の後知恵でしょう。それはとても豊かな副産物。結果、そうなるのであって、最初からそれをめがけて遊んだりはしない。社会性を身につけるため、心身の成長のため、そう思って遊んでいるこどもを、私は見たことがありません。

遊びは遊びのために存在している。For what (なんのために)は存在しない。遊びは、最高度に自己目的的行為なのです。

なんのためにこの世に生を受けたか。───魂の成長のために。
それも結構な答えです。でも、私ならばこう問います。「なんのために魂を成長させるのか」と。それではwhyが遮断できない。それは最終解答たりえない。

遊びだけが、その問いを遮断する。極めてロジカルに、そう答えることができます。

陽気遊山

なんのために、人は生まれてきたのか。
この問いに答える、別のアプローチがあります。ただし、こちらはロジカルではない、マジカルなアプローチ。神話や宗教です。

月日にわにんけんはじめかけたのわ
よふきゆさんがみたいゆへから

月日には 人間はじめかけたのは 陽気遊山が 見たいゆえから ※漢字は筆者による
(おふでさき 14-25)

天理教の聖典、『おふでさき』の一首です。
「月日」とは神の一人称です。「陽気遊山を見たくて、神は人間を創造した」、実に明快に語られています。

私は、個人的にこの陽気遊山という言葉が好きです。特に「遊」の字が。「遊山」を辞書で引くと、「野山に、遊びに出掛けること。また、気ばらしに外出すること」とあります。私は野山という限定を外し、陽気遊山とは「この世の中を陽気に楽しく遊ぶこと」と理解しています。それを私らしく言い換えるなら、「与えられた生を存分に味わい、豊かに生きること」です。

現代、遊山と言えば一般に、ディズニーランドやUSJに代表される各種テーマパーク、または風光明媚な観光地への旅行、といったものをイメージする人は多いと思います。でも、陽気遊山はそうではない。それは、「与えられた生を存分に味わい、豊かに生きること」。ディズニーランドもUSJも、その「与えられた生の一コマ」ではあるでしょう。でも、「一コマ」でしかない。メインではない。

私たちの生の現場は、遊びの舞台は、日常のただ中にある。
それは、家庭の、職場の、学校の、通勤電車の、コンビニの、ショッピングモールの、最寄りのスーパーの、───無数に存在する、私が生きている、いま・ここ、です。それが私たちの陽気遊山の舞台です。信仰者の眼には、それらは「与えられたもの」と映ります。私たちは、神の守護のただなかに、喜びのなかに、生かされつつ、生きる。

さて、こうした「与えられた生を存分に味わい、豊かに生きること(=陽気遊山)」は、神様の側からすると、次のように表現されるでしょう。

親(神)は子どもたちが仲良く遊んでいる様子を見るのが嬉しい。

最高ですね。
人間の喜びが神の喜びとイコールだと。それは二つで一つ。『おふでさき』のどこを探しても、神を喜ばせろ、とは書いてない。喜べ、楽しめ、と書いてある。陽気づくめ。それが見たい。それこそが親の思い。見て共に楽しむ。陽気遊山とは神人和楽なのです。

僕らは遊ぶために生まれてきた。

最高じゃありませんか。
知性にも情緒にも、不思議な魅力をもって強く響く。自由で、創造的で、際限がない。私たちの生が、何かの手段へと貶められることはない。人間の本質は、遊ぶことにある。
それは、ロジカルな帰結であり、マジカルな宣誓。

───さて、その「遊び方」について縷々語られているのが、私たちの信仰です。この宣誓の射程は驚くほど、広く、深く、豊かである。そうしたことが次第に見えてきます。でも、それについては、また他日。お付き合いいただければ、幸いです。

ソムリエを気取ってワインを味わう青年

文:可児義孝 絵:たづこ

tabinegoto#24

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