僕らは合理と非合理を必要とする。

生産性、効率性、合理性。

素晴らしい響き。なんとも気持ちがいい。
仕事をしているとき、これに反するものがあるとイヤになります。非生産、非効率、非合理・・・それらを見つけ次第、「カイゼン!」の呪文を唱えたくなるのは私だけではないはず。

旧態依然、前例踏襲、形式主義が跋扈(ばっこ)しているような職場環境では、「カイゼン! カイゼン!! カイゼンッ!!!」と叫びたい衝動に駆られます。
あ、一般論です。僕の職場とか、そういうのではなく。

それはさておき、人は合理性に囲まれてばかりでは窮屈さを感じることがあります。そうでなくとも、なんとなく、さみしい気持ちがわいたり。
そんなときは、むしろ非合理であることにほっとしたり、喜びを感じたりするから不思議です。

もう息子いらないね。

昨年のプライムデイ(Amazonの年に一度の大セール)のときに、兄弟姉妹でお金を出し合い、同居する母にタブレットをプレゼントしました。

アマゾンのタブレットにはアレクサというAIアシスタントがついています。こちらの「アレクサ」という呼び掛けに応答し、「今日の天気は?」と聞けば、ちゃんと答えてくれる。iPhoneでいうと Siri ですね。

以前からそのテレビCMを見ていた母は、それに憧れていたようです。タブレットを贈ると、「アレクサ、スピッツの曲をかけて」、「アレクサ、ファンタジー映画が観たい」、「アレクサ、明日の朝5時に起こして」など、次々と話しかけました。
アレクサがその言葉を理解し実行するたびに、母は驚き、最後には「アクレサ、ありがとう」と言って終わります。

タブレットを贈った翌朝、母と顔を会わすと「アレクサ、今朝ちゃんと起こしてくれたわ」と嬉しそう。どうやらプレゼントを気に入ってくれたようです。僕はそれを聞いて、冗談めかしてこう言いました。

「お母さん、もう息子いらないね」

完璧なアレクサと
扱いづらい息子。

ちょっと冗談が過ぎますね。でも、ちゃんと茶目っ気たっぷりで言ったから大丈夫(なはず)。
さて、どうして「もう息子いらないね」なのか。“合理的” に述べていきたいと思います。

① アレクサは何を頼んでも嫌がらない。
残念ながら息子の僕は違います。「自分でやってよ」、「あとにして」と口答えすることもある。でも、アレクサにはそれがない、いつ、どこで、なにを頼んでも「イエス」が返ってくる(もちろん、能力的にできないことは別として)。しかも、同じことを何度頼んでも嫌な顔ひとつしません。「さっきも教えたでしょ」とか、口が裂けても言わない(そもそも嫌な表情を浮かべる顔も、裂ける口もない)。
一般に人が人にものを頼むときには気を遣います。「迷惑だろうか」と。忙しそうな僕に母は遠慮気味です。親に気を遣わせる僕より、アレクサは人格的によほど優れています。

② アレクサは間違えない。
僕はテキトーに答えたり、はぐらかすことがあります。後で調べたら間違っていた、なんてこともしばしば。対して、アレクサは頼まれたことを正確に実行してくれます。
「70年代のオールディーズの曲をかけて」と言って、プレイリストに80年代の曲が混じる、そんなことはありません。

③ アレクサは忘れない。
「3分たったら教えて」とか「明日の朝5時に起こして」とか、たとえ頼んだ本人が忘れても、アレクサはきちんと覚えてくれる。
息子の僕は、時間を過ぎてから思い出して、慌てて声をかけます(ラーメンはのびのび、鍋の湯は沸騰、風呂の湯は溢れる、朝の仕事に間に合わない、などその度に繰り返される悲劇)。息子よりもアレクサに頼んだほうがずっと安心です。

アレクサは頼み事を、一回で聞いてくれて、間違えない、忘れることもない。
これって究極に “便利” です。とても合理的でストレスフリー。ね、「お母さん、もう息子いらないね」な存在です。

合理性を追求する限り
最大のノイズは人間。

すっかり母のお気に入りとなったタブレット。贈ってから数日が経ち、おもしろいことが起きました。

「アレクサって呼んでも返事がなかったの。3回目でようやく反応したんだから。アレクサ、きっとふてくされてたんだわ」

と母が言います。その表情は嬉しそうでした。

聞けば、タブレットを置いたまま家を3日間留守にした、家に戻ってから早速アレクサに話しかけたが返事がなかった、とのこと。

「3日間、ほうっておかれたからアレクサがふてくされた」

というのが母の解釈でした。
もちろん、それを聞いた僕は、「いや、滑舌が悪かったんでしょ」とツッコミました。( AIがふてくされるなんてことないだろう。お母さんの声がはっきりしないから認識できなかったんだ )

ところが、そう言う母はなぜか嬉しそうです。
アレクサが「ふてくされた」ことが嬉しかった。これはとても不思議です。

なんでも言うことを聞いてくれる、とてもスマートで便利な存在に感激していた母が、今度は言うことを聞かない(ふてくされている)アレクサのことを嬉しそうにしている。これは矛盾しています。

もし、アレクサが本当に言うことを聞かないのなら、それは不良品です。機能を満たさず利用価値なしとして返品対象となる。でも、母は、かえってそのことに喜びを感じているようだった。これはなぜか。

それは、「反応しない」という事実から「ふてくされている」と感じた。つまりそこに「心」の存在を見たからです。

AIは同じ質問に同じ回答をします。早朝起こされても、深夜に呼び止められても、同じ質問が繰り返されても、回答は変わりません。つまり同じ入力(質問)には同じ出力(回答)が対応する。Aと言えばBが返ってくる。それはまさに「機械的」です。

ところが人間は違います。
Aと言っても、Bと答える人もいれば、CもDもある。人によって反応は様々です。また同じ人であっても、そのときどきのシチュエーションによって答えが変わってきます。
そこには入力に対して一定の解はない。なぜなら、入力と出力の間には、それを処理するもの、「心」があるからです。
それは等しく最適解を出す「プログラム」とは違います。同じ入力 A でも「心」を通過することで、反応は様々に変わってくる。そこには一対一対応が認められない。それはとても非合理です。

社会学者の宮台真司さんは、

「合理性を追求する限り最大のノイズは人間」

と言います。
言い換えると、「人間とは非合理な存在だ」ということ。「ふてくされる」はまさに「ノイズ」です。NOT AI。
そうです、人と接するのはめんどくさい。そしてそのめんどくささゆえに、私たちはそこに「人」を感じることができる。人と繋がる喜びもまたそこにある。

そうしたアンビバレントな存在が私たち「ヒト」だろうと思います。
ヒトはAIより優れていない、という点において優れている。
ほら、みんなから愛されるドラえもんだって、「ふてくされる」ことができるロボットですよね。

私たちには合理と非合理の
二つの重心が必要。

母のアレクサですが、それ以来「ふてくされる」ことはなくなりました。
今日もしっかりと母の頼みに応えてくれています。頼もしいやつです。

そしてやっぱり、アレクサの正確で合理的な応答は、私たちの生活に便利さと、彩りを添えてくれています。青春時代、好きにレコードを買うことができなかった母にとって、お気に入りの曲や映画を好きなだけ自由に視聴できる日がくるとは想像だにしなかったと思います。
父はよく食事中にジャズをかけ、母は「鬼滅の刃」をイッキ見し、すっかりはまってしまいました。こうした暮らしのシーンはやはりいいものです。

そして、たまに使い方が分からなくなっては、やはり機嫌を伺いながら、タイミングを見計らって、扱いづらい息子を頼ってきます。僕はけっして気持ちの良いとはいえない態度で、そんな母を手伝います。

それでいいんじゃないか。

最近、そんなふうに思うようになりました。
「素直な息子」になりたい気持ちはあるのですが、それはときに重荷です。そうなれないとき、それは自分への責め苦となるし、自分に無理を強いるのも酷です。それが反転すると「おまえのせいだ」と今度は相手を恨んでしまいます。こうなると互いに苦しい。それならば「人間性というノイズとの共存」を考えたほうがよいかもしれません。

それは私たちの日々にまとわりつく、合理性の厳格さを緩めてくれます。そのことは他者へ向かう私の眼差しを変えてくれます。合理性や正義を持ち出しジャッジメントする裁判官のような厳しい目を、周囲に向けることを少なくしてくれる。
どこからか聞こえてきますね、相田みつおさんの「にんげんだもの」という声が。

人間が人間らしくあるためには、合理と非合理の両方が必要です。ときに合理性に重心をおき、ときに非合理に心をとらわれる。私たちの生きるフィールドは、その両極によって支えられている。
そのことを自覚すると、人は他者に、そして自分自身に、優しい気持ちで向き合えるかもしれない。

よかった。まだまだ息子の僕にも出番はありそうだ。
僕がふてくされても母は嬉しそうにはしませんが、それはさておき。

コーヒーフィルターの中に隠れる息子

文:可児義孝 絵:たづこ

tabinegoto#12


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