今日もアメノウズメが舞っている。

いつからか応援ソングと呼ばれるものが苦手になった。

素直に聴けない。

歌詞を真っ直ぐに受け取ることができなくなった。

それよりも、ダークなトーンの曲を好むようになった。もしくは美しい曲。

なんの意欲もわかないとき、虚しさでいっぱいのとき、それでもかろうじて聴くことができるのは、そうした音楽だった。

好きな読書も、気分転換の掃除や散歩も、自分からするだけの気力がわかない。

けれど、音楽は違う。

かければ、黙っていても耳に入る。

こちらから能動的に働きかけることを必要としない。

それがすごく楽だった。

ふさぎ込んでいるときに聴きたいのは、元気になる曲じゃない。

アップビートな曲で無理に気持ちをあげるのはキツイ。

いまの自分と距離がありすぎる。

それよりも、

僕の心の状態と同じ温度の曲がいい。

自分の心とシンクロするような音がいい。

寄り添ってくれる、代弁してくれる、このままでいられる、そうした音楽。

聴き終わる頃には、少しだけ気分が楽になっている。

もちろん、何も解決していない。

でも、少しだけ、いまの自分を肯定する気持ちがわく。

それがとても有り難い。

藝能の神が光を呼び込む

太陽神アマテラスが天岩戸(あめのいわと)に身を隠し、世界が闇で覆われたとき、藝能の神アメノウズメは、力強くエロティックな動作で踊り、八百万の神々が一斉に笑った。アマテラスは思わず戸を開け、世界に再び光が戻った───

なんて素敵な神話だろう。

そのときの音楽や踊りはどんなものだろうか。

それは知る由もないが、言えることは間違っても、出てくるようにと「説得」してはいないということ。

アマテラスは最高神。誰の命令も受けつけない。

自らの意志で出てくるよりほかない。

真っ暗な世界に再び光を取り戻したのは、音楽とダンスだった。

それも、アマテラスは戸を全開にしたのではない。
わずかに開いただけだ。
あとは神々が協力して太陽神を外へと連れ出したのだ。

わずかに開いただけ。

その「わずか」こそ、世界に光が差し込んだ瞬間。

「わずか」で「十分」なのだ。

モチベートより
シンクロが必要なとき

どうしようもないとき、人は自暴自棄になることがある。

悲しみが怒りとなって、些細な刺激で暴力的な衝動に駆られたりする。

そして、大事なものを自ら傷つけてしまうことがある。

それが怖くて、天岩戸に隠れる人もいる。

外に出たいけど、出れない。

様々な理由で、そうした人がいる。

きっとその鍵は内側からしか開けられない。

アメノウズメはアマテラスに直接は言葉をかけなかった。

ただ、外で半裸で踊った。

八百万の神々が思わず大笑いするほどに。

それは、自分の世界に閉じこもったアマテラスを肯定も否定もしていない。

そこに激励や慰めのメッセージはなかった。

ただ、そこにあるものとして、ダンスしたのだ。

僕が気持ちがふさいだとき、音楽に頼るのはそれに似ているかもしれない。

藝能の神を頼っているのだ。

そして、それは「わずか」だが、僕の心を開いてくれる。

僕はその「わずか」をきっかけに、また歩き出す。

説得せずに、僕の心と共振する。

モチベートではなく、シンクロする音楽。

底辺にいるとき、人が求めるのはそういうものかもしれない。

今日も太陽が昇る。

アメノウズメが舞っている。

「できることを、できる範囲で、しよう」

僕はイヤホンを外し、玄関掃除に向かった。

無気力なお父さんの横で楽しく踊る娘

文:可児義孝 絵:たづこ

tabinegoto#18

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