春がさらってゆく

三月の降雪は悩ましい。

除雪するか放っておくかの判断に困るからです。
遠からず雪は溶ける、そう思うと除雪がどうも億劫(おっくう)になります。
それに、教会の周りには砂利が敷かれているので、できるだけ雪を除けようと思えば、どうしても下にある砂利まで撥ねてしいます。

でも、そんな心配も春には無用。春の陽気は地表の雪をことごとくさらっていきます。

雪を降らし、とかす。
それは自然に組み込まれた一対のサイクルです。

私を“通過”する悩み

自身の半生を振り返れば、その時々に悩みがあったはずですが、今、そのほとんどが思い出せずにいます。
一年前、五年前、十年前、私は何を悩んでいたのか。きっと、悩みがなかったわけではありません。ただ、いまははっきりと思い出せない。思い出せないということは、おそらくは、解決したということです。現在に尾を引いていない。もう存在しない悩み。
でも、──どうやって解決したのでしょうか。

もちろん、中には忘れられない悩みもあります。
ただ、当時の悩みを覚えてはいても、いまそれに悩むことはありません。
「あのときはそのことで相当悩んだ」「苦しい思いをした」と忘れられずにいますが、いま、そのことで悩んではいない。「悩み」として私に迫るエネルギーは失せ、ただ過去の事実に留まっています。
──いかにしてそのエネルギーは失せたのか。私は何か決定的な解決の努力をしたのでしょうか。

不思議と大小無数の悩みが、そのようにして私を通過していったようです。

安心して生きていい

現れては消えゆく悩み。
春は知らぬ間に訪れていたのか。
訪れては去り、去っては訪れる。季節も、悩みも。それは始めから約束されているかのように。

人はもっと安心して生きてもいいのかもしれない。

それはあまりにも無責任な放言です。エビデンスを求められると、たちどころに引っ込めねばならぬ言葉。

でも、僕は思います。「安心して生きる」それは生き方の “構え” なんだと。
それは何か科学的な事実に裏打ちされたものではありません。自分の枠を超えて、何か大きなものを信頼して生きていくことです。
「信頼」や「信じる」にはどこか飛躍があります。確実なもの、100%そうなるものを、人はそもそも「信じる」必要がないのです。だから、そこにはどうしても飛躍がある。

そして、そうした構えをもった存在を、人は有徳と呼んでいるのです。大きな存在にもたれ、与えられた生を受け入れていく様。不思議な強さをまとう人。私たちはそこに、直感的に何か尊いものを感じ取るのかもしれません。それはその人の器ともいえそうです。

僕は安心して生きていいんだ。

それはほんの十数センチの積雪を前に悩む僕に訪れた、嬉しい春の便りです。

春、地中から顔を出すたけのこと青年

文:可児義孝 絵:たづこ

tabinegoto#38

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