北極星をめがけて。

もうすっかり道を覚えなくなりました。

スマホのナビが、経路を教えてくれるからです。だから、人に道を聞くこともなくなったし、曲がり角の目印を覚える必要もなくなった。事前に地図を眺めることもありません。ゴールを入力すれば、経路が示される。現在位置も、距離も、時間も、道路状況も表示されます。新しい場所へも迷うことなく行ける。私はもう、ナビを手放せません。

ナビの本質は指示です。判断の外部化。ゴールさえ設定すれば、あとは指示に従うだけでいい。
私は迷うことなく、不安に思うことなく、望む場所へと進むことができます。

そんなナビは、私の中には何一つ残しません。
スマホが故障した、電源が切れた、電波が届かない、一度ナビが機能不全に陥ると、私は打つ手がなくなります。道を覚える必要も、その意欲もなくした私は、すっかり指示待ち人間になっていました。
自分のなかには参照すべし経験も知見もストックされていない。
もともと道を覚えるのが苦手な私は、ナビをみて一度は行ったあの場所へ、今度は自分の力で行くことが叶わないのでした。

私のなかに、道標はなかったのです。

生きることにナビはない。
大切なのは北極星の存在。

ところで、日々の暮らしでも「ナビがあれば」と思うことはありませんか。
困ったときどうしたらよいかパッと答えが知りたい。自分では容易に答えが出せない問題に対して、明確な指示がほしい。生きるうえで、個人的な悩みに対して、どうすべきか。問題解決という目的地を入力するとサクッと答えがでる。そんな、誤りのないナビゲーション。
人間関係に困ったときなど、指示通りに振る舞えば問題なく目的地(良好な関係性)にたどり着ける。そんなナビがあれば、もう “迷子” は怖くありません。何の準備もなしに、日々の生活を安心しておくれそうです。

けれども、残念ながらそんなナビは存在しません。
人が生きることは、交通網、交通量、天候、そんな単純な要素の組み合わせに還元できるものではありません。私たちはそれぞれが固有の、唯一の生を歩んでいます。
「幸せ」という目的地は漠然と描きつつも、刻々と変化する瞬間をその都度どう進むべきか。あなたに代わる誰かに、常に答えてもらうことはできません。

信仰はそうした日々において、一つの方向性を指し示してくれます。

でもそれはナビではありません。指針。いわばコンパスであり、北極星です。

ナビは関心のスイッチを切る

北極星は天の北極に(ほぼ)位置する天体です。そのため見かけ上、ほとんど動くことがありません。北を指し示す固定点として、古来より人々に重宝されてきました。

北極星のある方角、それは地球上のどこの人が眺めても北を意味します。
仮に東京の人が北海道を北と認識しても、いずれ北海道に行き着けば、その目印は意味をなさなくなります。カムチャッカ半島の人からすれば、そもそも北海道は南西に位置します。これでは目印になりません。
それに比べて北極星はどこまでも遠い。それは到達できない彼方から「北」を告げてくれる。だからこそ、世界中どこの誰であっても安心して「北はあっちだ!」と指差せる。北極星は万人の道標です。

信仰は北極星に似ています。
私たちの信仰生活は、細目にわたり戒律が定められているわけではありません。また、為すべき行為が具体的に規定されているわけでもありません。それが示すのは大まかな方向性です。
そのため、信仰者もときに迷います。判断に苦しむこともあります。それはナビとは違い、右、左と指図してくれないのです。指し示すのは、あくまで進むべき方向性。あとは現場での判断となります。
頭上の星を仰ぎつつ、目の前の現実に処していく。それは、自分で道を探ることです。

ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)のヒューゴ・スピアーズ研究員は、自分で道順を見つける場合とスマホ等のナビに頼る場合とで脳の活動がどう異なるかを実験し、次のように述べています。

自分で道を探す時に使う脳の部位は、テクノロジーで進路を指示される時、道路の状況に反応しなくなるのです。つまり、私たちの脳は、周りの道路に関する関心のスイッチを切ってしまうのです。

もしも信仰が完全なるナビであれば、私たちには悩みとともに主体性もなくなるでしょう。同時に世界(他者)に関心を向けることもなくなるでしょう。そのとき私たちは単に指示に従うだけのロボットのような存在に成り下がります(それは狂信的なカルトを想起させます)。
そこでは、信仰はなんら自身を変革する契機とはなりません。成長は望めず、精神を涵養することもありません。

しかし残念ながら(もしくはとても幸運なことに)、信仰は私の人生の完全なナビではありません。それは方向を指し示す北極星です。

幸福とは目的地ではなく、
旅のしかたのこと。

わかるよふむねのうちよりしやんせよ
人たすけたらわがみたすかる

分かるよう胸の内より思案せよ 人たすけたら我が身たすかる ※漢字は筆者による
(おふでさき 3-47)

天理教の聖典『おふでさき』の一首です。
教理は指し示します。生き方を。それはあなたに参照されることを待っています。

ですが、「人をたすける」と端的に示されても、それがどうすることなのか、本当のところは分かりません。
優しい言葉をかけてあげることか、叱咤激励することか、黙って寄り添うことか、温かい毛布をかけてあげることか、一緒に楽しく食事をすることか、遠くで見守ることか、家事を手伝うことか、嘘偽りなく向き合うことか…なにが今目の前にいる、この「人をたすける」ことなのか──。

でも、それでいいのです。方向性のみで具体的指示がない。だから真摯に向き合うほかないのです。それにより私たちの「関心のスイッチ」が切れることはありません。次第に私の心は涵養され、磨かれていく。
北極星は不断に輝き、私を導いてくれます。が、それをもとに いま・ここ を生きるのは私自身です。

生きることにはそれほど明確な経路はありません。最短距離もない。道路状況もわからない。それどころか、目的地もあやふやである場合が多い。そんなとき、手元のスマホ画面ばかり見ていては危険です。遠くを見ようとしない。運転は近くを見ると背景の変化が激しすぎてかえって危ない。視線を遠くに保つことで安定した走りができます。

北極星は遠くにあることで、地上のどこからも見ることができます。だから応用が効く。右往左往しなくていいのです。星に目をやり、真摯にいまを生きることで、充実する生があります。

幸福というのは、最後の目的地のことではなく、旅のしかたのことである。
(マーガレット・リー・ランベック)

信仰は、遥か彼方の北極星のように私の生を照らしてくれる。
それは、ナビのように事細かに指示はしないが、しかしだからこそ、生きるうえであらゆる場面の指針となりうる。
そのことは、思考停止とはまったく異なり、むしろ私たちが真摯に生きることを促します。
なぜなら、指し示させれた方向に進むことは、ときに困難だからです。
困惑してもなお、方向を見失わず、自らの足で歩みを進めることができる。

そうした旅は、それ自体、とても幸福なことかもしれません。

トランクいっぱいの旅の荷物

文:可児義孝 絵:たづこ
(イラストは後日アップします!)

tabinegoto#35

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