奇跡ではなく “理” を信じる。

3年前に「私が体験した奇跡のような話」というタイトルのもと講演依頼をいただきました。
当日、壇上に上がる私の目の前には、「信仰による奇跡の話」を聞こうと多くの聴衆が集まっていました。
冒頭、私は次のように言いました。

「僕は、奇跡があまり好きじゃありません」

もちろん、これは聴衆の興味をひこうと意図しての発言です。でもそれは、私の正直な気持ちです。そこに嘘はない。その気持ちにいまも変わりはありません。私は奇跡を好みません。あえて言葉にすると、奇跡を売り物にはしたくないと思っています。
それは、ひとえに奇跡が “奇跡” だからです。

奇跡は参考にならない。

私の講演の冒頭は、次のようなものでした。

───

今日は、奇跡についてお話をしようと思います。奇跡です。テーマは奇跡。

3ヶ月前に主催者から、「何か奇跡的なご守護の体験をテーマにお話していただけませんか?」とオファーがありました。要するに、奇跡的に命が助かった、とか、奇跡的に願いが叶ったとか、そういうミラクルな体験を話してほしい、ということです。
そのとき僕が思ったのは、「キャッチーだなぁ」です。
そうですよね。奇跡といえば、いかにも宗教的で、みんなの興味・感心をひく。分かりやすくてインパクトがある。おまけに人が助かるんだから、感動しちゃいそうです。だから下世話に言うと、「うわー視聴率取れそう」と思ったわけです。
もちろん、主催者は、そういうことは全部わかったうえで、あえて、このテーマを指定しているわけです。まずは奇跡を入り口に信仰の魅力を発信しよう、ということだと思います。それは、悪いことではないと思います。

でも同時に、僕は、奇跡があまり好きじゃありません。
なぜなら、奇跡は “奇跡” だからです。
今回のことは特別、あの人だからできた、たまたま、偶然、運が良かった。そういうスペシャルなことが “奇跡” です。
つまり、奇跡とは “例外” です。

むかし流行ったサイババという聖者をご存知でしょうか?
何も持っていない手から白い粉を出すんですね。それを手品としてではなく、神に選ばれた人間としてやっていた。カメラでいくら手元をとらえても、種も仕掛けもない。それは奇跡です。科学では説明できない。
でも、そんなことされても、僕だったら嬉しくない。せっかく話を聞いても、参考にならない。すごかった!で終わり。そのとき感動して終わり。だって、奇跡だから。
奇跡は持ち帰れない、サイババの話を何回聞いても、僕の手から白い粉を出すことはできない。ですよね。

そんな他人事の奇跡よりも、僕は “再現性” が大切だと思っています。
再現性。いつ、どこで、誰がやっても、同じような結果を得ること。それは奇跡じゃありません。必然です。種も仕掛けもしっかりあって、それを教えてもらう。それなら、僕も持ち帰ることができる。生活に活かせる。人生を豊かにすることができる。

問題は、どうしたら、そのような結果に至ることができるか。ここに尽きます。言葉を変えると、神様のご守護の道筋はどうなっているのか。それが大切です。そして、それを学んで、実行していく。

これは他人の奇跡に勝る、自分自身の財産です。

神様はデタラメをしない。
理という道筋がある。

再現性、いつどこで誰がやっても同じ結果を得ること、の例をあげますね。

みなさん、「遠心力」はご存知だろと思います。中心から外に向かって働く力のことです。
車で急カーブを曲がろうとしたとき、体が外側にひっぱられますが、この外に向かって働く力を遠心力といいます。

たとえば、ここに水を汲んだバケツがあるとします。
これを逆さにすると、とうぜん水は落ちてしまいます。
ところが、腕を中心にグルグル勢いよく回すとどうなりますか?
水は落ちてきません。私たちの目には見えない遠心力が働くからです。

ちょっと、みなさんに聞きたいと思います。
バケツをぐるぐる回して水が落ちなかったら、それは “奇跡” でしょうか?
違いますよね。奇跡ではない。遠心力という目に見えない力が働いているからです。
一定の条件を満たせば、必ず遠心力は働きます。これが再現性です。

同じように、神様の働きも目に見えません。
しかし、目に見えないだけで、確実に存在しています。遠心力と一緒です。
お道(天理教)では、それを理の働きと言います。
理の働きは、デタラメ、偶然、ランダムではないはずです。そんな不安定なものではない。
それでは、私たちは理を頼りに生きていくことができません。

人を助けて我が身助かる。二つ一つが天の理。順序一つが天の理。など、理にはしっかりとある方向付けがなされています。
それは、一言でいえば「人間の陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたい」との神意に基づくものです。

例をあげます。「順序一つが天の理」。
神様は順序を大切になさっている。分かりやすい具体例を一つあげると、「出せば入るのが天の理」です。
たとえば、「あの人に挨拶をしてもらおう」と思ったら、待っててもダメ、「挨拶しろよ」と命令してもダメ。
答えは簡単です。こちらから、目を合わせ、笑顔で「こんにちは」と話しかける、すると相手も「こんにちは」と返してくる。自分が先に出すから、相手からも挨拶が返ってくるわけです。これは、特別なことじゃないです。奇跡だと思う人はいません。
「出せば入るが天の理」だし、ほしいものは自分が先に出すという「順序一つが天の理」の一端であるわけです。

これをもっと、究極的にたどってシンプルにすると「人をたすけて我が身たすかる」とのご神言に通じていきます。

すべての教理は陽気ぐらしへ至る道筋を示している。

「人を助けて我が身たすかる」は、いつ、どこで、誰が行っても、一緒です。奇跡ではない、世界はそのように作られている。陽気ぐらしへ向け、神様がそのように世界をデザインなさっているということです。
何を言いたいかと言うと、「理にそった努力、理にそった実行には、必ず理にそった結果、ご守護をいただける」ということです。
神様がイメージする人間の在り方、それに向けた理という基本設計にそった生き方をすること。それによって、陽気ぐらしを味わうことができる。
それは特別なことではない。奇跡ではない。誰もがそうした世界に生きている。神様はいつでもご守護を与えたくて仕方がない、そう信じます。

───

魔法使いはいない。
理を学び、行動しよう。

ここまで書くと、最後までメッセージを伝えたい気持ちになります。
以下は、私が同講演の終わりに語った内容です。読み返すと、少しファンタジーに過ぎますが、そのまま記載します。私たちには、理とともに情も大切です。

───

みなさん、落合陽一さんをご存知ですか?
「現代の魔法使い」と呼ばれ、世界的に注目されているメディアアーティストです。若干31才(当時)、僕より年下。専門は、波動の研究です。
波動っていうとなんだか響きが怪しいですが、ようは、音や光といった、振動、波長を扱う。それによって、空中に物体を浮かせて像を結んだりして、新しい形のアートを創造しています。

彼が次のようなことを言っていました。

「空中に物体が浮かんだら、それはまるで魔法だと。でも実際は科学的な法則にしたがって起きている現象です。ところが、一般の人はその仕組がわからない。たとえばスマホ。一瞬でつながり、計算もでき、ルート案内、検索、なんでもできる。みんな使っているけど、中身がどうなっているのかさっぱり知らない。ブラックボックス化してる。一部の人間がそれを扱い、新しい物を創造する。それは、魔法使いに例えられる。どうしてそんなことできるの?となるわけです。奇跡を起こす魔法使い」

さて、今日の講演会のテーマは“奇跡”です。

落合陽一さんの言葉を借りれば、もしかしたら、今日の講師の話は魔法のように感じるかもしれない。“奇跡” であればそれは魔法です。奇跡を起こしたら、それは魔法使いです。でも、そうじゃない。誰も魔法はつかえない。本当は、神様の教え、理の働きがあって、はじめて成ってくることです。

先人が記した、僕が一番好きなお道(天理教)の本にこうあります。

「教えの理、世上の理、人間心の理、この三つの理をようかみわけるよう」

この社会について学び、人間の心について学び、そして教えの理を深く学ぶ。
その三つを別々とせず、よくかみわけて、自らのものとしていく。
それをお道の人が、自分の生きるうえに、人助けのうえに、仕事に、家庭にと体現していけば、すごく楽しいなって思います。
実生活のうえで、目に見えない理の世界に生きていく。それはまるで、現代の魔法使いです。

バケツの水は落ちない。親様の教えを味わい実行したら、人生で落ちることがない。
それは一般の人からしたら奇跡ですが、私たちお道の者からしたら奇跡でもなんでもない。天理教に現代の魔法使いがわっさわっさいる(笑)考えただけでも面白い。運命がひらけて当たり前。そんな展望を、私は自分の妄想として持っています。
一人二人と、この妄想をシェアする友人が増えていけば、こんな嬉しいことはないです。

最後に一番伝えたかったことをもう一度言います。

ご守護は奇跡ではない。

理に沿った努力には、理にそった結果が現れる。

だから、理を学び、行動しよう。

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茜さす空と海

文:可児義孝 絵:たづこ
(イラストは後日アップします!)

tabinegoto#29

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