旅寝言は不定期更新になります。

毎週月曜日 9:00a.m.更新
そう掲げて始めた、この信仰エッセイ『旅寝言』。これからは特定の更新日を設けずに、不定期更新とすることにしました。

そもそも更新日を定めたのは、
1、特定の更新日を設けることで、更新日が読者に認知されること。それにより定期的にアクセスしてもらえるようにすること。
2、「一定の更新頻度を保つ」という、SEO的観点からの要請。
3、更新日を公言することで、自身の三日坊主を防ぐ。
の3点が主な理由でした。

そうして、実際に執筆をすすめることは、私自身とても楽しいものでした。

有用性の尺度がもたらす、
やましさと焦慮。

私の場合、「書きたい」と思う “種” みたいなものが先ずあり、文章によってそれに形を与えていく、というのが通常の執筆の流れです。
種の段階で文章を書き始めるので、当初は書き上がった姿、全体像は見えていません。書き進めるなかで、次第に形が現れていく。ときにそれは、筆者にも思いがけない発見です。箱を開けてみなければ中身が分からないように、書き進めなければ、何を書こうとしているか分からない。書き上げて初めて、「あ、こんなことを考えてたんだ」「こんなことを言いたかったんだ」というような感じです。そういう楽しさが、文章を書く行為にはありました。

ところが、執筆の機会が常にあることで、いままでは自然と生まれてきた種を、今度は自ら探し訪ねるようになりました。特定の更新日を設けることは、私の三日坊主を防ぐ狙いもあったので、種を探すことは、それがしっかり機能している証拠でもあります。
これは「書きたい種がまずあって書き始める」から「書くために種を探す」へのシフトです。
そうなると、私の感じ方や考え方に少なからぬ変化が生まれます。

たとえば好きな読書では、文章や内容を味わったり、余韻に浸ること以上に、「あ、これは執筆に使えそうだぞ」といった有用性が先立つようになりました。
何か新しいことを始めるときにも、そうした気持ちが事前にわきます。収穫を狙う、売上を計算する、そんな気分です。そのことをどう捉えるかは人それぞれでしょうし、それ自体、何ら非難されるようなことではありません。でも私自身は、そこに「やましさ」や「焦慮」といった感覚に近いものを感じ取るようになりました。

そのときどきに感じること、
大事に思うことが、種。

ある友人からエッセイの表題について、「可児くんらしい、どこかカッコつけたタイトルだよね」と言われました。図星であり、気恥ずかしく思いました。それでも私は、この「旅寝言」というタイトルが気に入っています。

そこに込めた意味は、連載の最初(tabinegoto#00「旅寝言 (tabinegoto) はじめます。」)に述べたので、ここでは繰り返しません。ですが最近になり、定期連載による私の執筆姿勢の変化が、「旅寝言」の語感からくるイメージにそぐわないと感じるようになりました。
旅が計算され、寝言がレポートのようになってきた。私は文章で飯を食うわけでもないので「それはイヤだ」と思うわけです。気づかないうちに、自分自身の楽しみとしての文章、その文章を幾人かの人に読んでもらえる嬉しさ、そうしたものから次第に離れていったような。それでは、せっかくの旅寝の風流な感じが出てきません。

そのときどきに感じたこと、大事だと思うことを、自分の言葉で文章にしたためる。それが当初目指したものです。定期更新だと、そこにどうしても無理が生じます。無理やり書く場面がでてくる。それは筋トレのようにある種の力をつけるかもしれませんが、自分が感じたこと、大事に思うことを出発点にできないときは、やはり苦痛です。
また、『旅寝言』は教理解説や、天理教の概説、及び紹介を目指したものではありません。そういった方向なら、あるいは書けたかもしれませんが、それは私がここで書きたい内容ではありませんでした(記事に困り、過去の公演原稿に手を加えて『旅寝言』として “再版” することは苦肉の策でした)。

そうしたことをいろいろ考えると、定期更新するメリットよりも、自分の種を大切に不定期にすることのほうが、より旅寝言の本義に適い、自分自身の精神も健康でいられると思い、今回の判断へといたりました。

自分で勝手に定めて、自分で勝手に反故にして、わざわざそれに関する文章まで書いて。誰もそんな説明など求めていないかもしれないのに。でも、まぁ一応のけじめです。

まず旅寝、ついで寝言。

さて、インターネット上の記事ということは、当然データ解析ができるわけで、私も例にもれず更新日の翌日などは必ずチェックし、読んでくれた人の人数や属性を見ています。
8ヶ月続けて言えることは、どうもそんなに「PV数(ページの閲覧回数)は増えていない」ということです。ちょっとデコボコしているものの、グラフはほぼ横ばい。企業であれば失敗です。閲覧数も少ないので、個人ブログとしても寂しいものです。

それでも私は、熱心に読んでくださっている何人かの顔を思い浮かべることができます。
横ばいのグラフの中には、私が知らないだけで、読み続けてくれている人もいるのだと思います。
それはとても幸せなことです。
読んでくださり、ありがとうございます。

あなたがもし楽しみにしてくださるのなら、今後は更新のタイミングが分からずご不便をおかけしますが、思い出した折にでも、ぜひまた遊びにいらしてくださればと思います。あるいは個人Twitter(可児義孝 / Yoshitaka Kani)のほうで更新の告知をしますので、そちらをフォローしていただけるといいかもしれません。

旅寝の、寝言の、旅寝言。
これからまた、よく旅寝して、焦らず、健やかに、気持ちのよい寝言が生まれるのを私自身楽しみにしています。
そう、最初から寝言は無理に出すものではなかったのです。これからは、昼間を存分に味わいたいと思います。そして、その旬々の信仰の景色を文字にできればと思います。
今後もお付き合いいただければ幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。

布団で気持ちよく眠り寝言を言う青年

文:可児義孝 絵:たづこ

tabinegoto#37

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