Don’t ウォーリーをさがせ!
6歳の息子と4際の娘は『ウォーリーをさがせ!』が大好きです。
よく寝る前に一緒に見ます。それは「読む」のではなく、「見る」絵本。
『ウォーリーをさがせ!』は子供向けの絵本で、大きな見開きページに所狭しとたくさんの人が描かれています。その大勢の人混みの中から、主人公である「ウォーリー」を見つけ出す、というのがこの本の楽しみ方。
赤と白のボーダー服が彼のトレードマーク。
その背景には、原始時代や中世のお城、美術館や、ハリウッドなど、古今東西、様々なシーンが描かれています。
私はこどもに負けじと本気でウォーリーを探します。
どちらが先に見つけるか競争です。
Googleの検索エンジンにかけたように、その他大勢には目もくれず、ひたすら「赤と白のボーダー服」の検索ワードにひっかかる情報だけをピックアップしていきます。チェック。チェック。チェック。次。次。次。
探す楽しみと、
探さない楽しみ。
「みっけ!」「えぇー!はやいー!!」悔しがるこどもたち。「はい、つぎー」
ページをめくって再びウォーリーを探します。こどもの遊びに付き合うつもりが、やりだすとこれがなかなか楽しいのです。
すべてのページをやり尽くすと、「もーいっかい! 」とこどもたち。
ところが彼・彼女は私よりうんと記憶力がいいので、ウォーリーの位置をすべて覚えています。これでは勝負になりません。そこで、巻末の「とくべつだいチェックリスト」に載っているウォーリー以外の人やモノを、再び各ページから探し当てていくことに。
検索ワードは変わりました。
今度はウォーリーには目もくれません。
そうして始まった二巡目。ウォーリーを見つけようと、一度はあんなに注意深く隅々まで見つめたページですが、お題が変わると、「そんなのあったっけな?」とまるで覚えていません。それはこどもたちも同じようで、また一から探し始めます。
しばらくして私は、いつのまにか自分が「探し当てるゲーム」とは違った楽しみをしていることに気づきます。
全体の構図や細部、そこに込められたストーリー、それらがとてもおもしろいのです。
人々の動きや表情、細かく書き込まれた服装や小道具まで、よく見るとその一つ一つに作者の意図があり、それらが物語を形作っています。それは単にウォーリーを隠すための寄せ集め、雑踏ではありません。意味が与えられているのです。
絵そのものが楽しい。
そこには作者のユーモアやアイデア、見るものを魅了する細かな設定がたっぷり詰まっていたのです。いままではウォーリーを探すことで頭がいっぱいで気づきませんでした。
ウォーリー探しに夢中だと、焦点は極度に狭まります。それはまるで宝物です。「ウォーリーか、それ以外か」で世界は二分されている。背景が霞んでしまう。それくらい、宝探しは楽しいものです。
でも、先にウォーリーを見つけ出す快感も、見開きページいっぱいに描かれた世界の豊かさも、その両方を知るいまとなれば、宝探しだけで終わってしまうのは、とてももったいないことのように思われます。
一方には、ウォーリーを探し出す興奮やその達成の喜びがあり、一方には、細かな描写の豊かさに目を見張る楽しみがある。
それらは、それぞれの仕方で私に満足を与えてくれるようです。
先鋭な目的意識が
風景を曇らせる。
私たちは社会で生きる以上、さまざまな目的のもと日々の生活を送っています。
試験に合格すること、逆上がりができるようになること、意中の彼・彼女を振り向かせること、時間通りに家事をこなすこと、企画を通すこと、プロジェクトを成功させること、マイホームを持つこと、五輪で金メダルを獲得すること──。今日もそれぞれが、それぞれの目的に向けて一生懸命です。
一つのことに全力で打ち込むことは、それ自体とても尊く、価値あることだと思います。そうした目標を持てたこと自体、とても幸せなことかもしれません。ときにそれは一種のゲームのようでもあり、熱中するほどに楽しくもあります。
一般に掲げる目標が大きければ大きいほど、それに比例して焦点を絞る必要があります。それだけにフォーカスする。集中する。そこへ持てるエネルギーを注ぎ込む。そうすることで達成の見込みは高まります。
それと同時に、私たちの視野は狭まります。集中とは、対象以外をかえりみないことでもあります。それは「望み」と「それ以外」で峻別された世界。
そのとき、もしかしたら、私は世界の豊かさから自ら遠のいてしまっているのかもしれません。
期日までに原稿を書き上げることで頭がいっぱいの私は、横でスヤスヤ眠るこどもたちの寝顔を見つめる幸せに気づくことはありません。苔玉から出た新芽に気づくこともありません。洗いたてのシーツの爽やかな肌触りや太陽と柔軟剤の香りにも、幸せを感じないかもしれません。
目的意識が強すぎると、そのほかのたくさんの素敵なものが目に入らなくなってしまう。
目的意識から離れることで、いままで気づかなかった存在(価値)に気づくことができる。
ウォーリーはたしかに重要だけど、それは全てではありません。
ウォーリーを成り立たせている背景も、主役と変わらない丁寧な筆致で描かれています。そこにも発見や楽しさはたくさん詰まっている。楽しみ方はいろいろにあるのです。
作者は細部までこだわってくれています。
作品への愛は隅々までいき届いている。
勝利の女神は魅了する。
が、神は細部に(も)宿る。
ウォーリーを探し出すことは、目的を達成することは、とても気持ちの良いものです。すべてを捧げて勝ち取ったものならなおさら。人はそこに感動を覚えます。それどころかその感動は他者へと伝播する。人に感動を与えすらする。
それはきっと勝利の女神の微笑みです。女神は人々を魅了してやみません。女神は私たちの視線を一身に集めます。
でも同時に、「神は細部に宿る」とも言います。
細部。それはウォーリー以外の部分。私たちの日々の目的意識の外。そこにも、しっかり神様は宿っている。勝利の女神にばかり目を奪われていると気づくことのできない世界が、そこに広がっています。
私とこどもはウォーリーを見つけたことで、次の楽しみを発見しました。でも、人生のような大舞台では誰もがウォーリーを見つけられるとは限りません。また、探すことに疲れることだって、あるかもしれない。そんなときは、「○○をさがせ!」のゲームからいったん距離を置くことをおすすめします。
きっと、いままで背景だとばかり思って見向きもしなかったもののなかに、楽しさや、面白さや、幸せが見つかるはずです。
それもまた、私たちが手にする絵本の正しい遊び方にほかならないと、私は思います。
作者はきっと、そのことをとても喜んでくれるはずです。
なぜなら、
作者の愛は作品の隅々までいき届いているのですから。
文:可児義孝 絵:たづこ
tabinegoto#34