となりのダイバーシティ
最近、「ダイバーシティ」という言葉をよく耳にする。
直訳すると「多様性」。
年齢、性別、人種、宗教、趣味嗜好など集団の中にさまざまな属性の人が集まった状態を指すそうだ。
政治、企業、教育機関など、様々な分野でダイバーシティの重要性が説かれる。
特に企業では、人種・国籍・性・年齢を問わずに人材を活用することで、ビジネス環境の変化に柔軟、迅速に対応できると考えられており、そうした人材の活用が推進されている。
同質者集団であることをやめ、差別を廃し、さまざまな属性の人から成る集団を構成する。
企業の主要な関心の一つは利益を最大化することだが、そのためにも、社会的責任・公益性を果たす必要がある。
いわゆる「意識が高い」人たちの間では、そうした「多様性に開かれたよりよい社会を築こう」というのが、もはや常識のようだ。
閉鎖的な企業文化を多様性へ開こうと思えば、相当な努力が必要だろう。
それをいとわないという意識が社会に芽生えてきているのを感じる。
───と、少し「意識高め」の文章で始まったが、実際、大企業につとめている身ならぬ私は、「ダイバーシティ」や「CRS」といった言葉を身近に感じる機会は少ない。
が、日々、生々しい多様性をすぐそばに感じている。
パートナー(かけがえのない相手。私の場合は妻)の存在だ。
それは、もっとも身近でありながら、自分とは異なる個性を持った存在。
声の大きいダイバーシティと
声の小さいバラエティ。
離婚の理由で常に一位なのが「性格の不一致」だ。それも詳しく見るとほんの些細なこと。食事の仕方や、片付けの習慣などなど。それは多くの場合、多様性とすら認識されない。最も脆(もろ)く無視されやすい多様性。
が、この「個性」こそ、実は究極のダイバーシティ。パートナーとの生活は、その現場だ。
この多様性は、なぜこれほどまでに弱く儚いのか。
ダイバーシティと似た言葉にバラエティがある。
辞書を引くと「変化があること。多様性」とある。意味合いはダイバーシティと重なる。
しかし、ダイバーシティは「元々の種類の違い」を強調しているのに対し、バラエティはより「(同種の中の)種類(の違い)」にフォーカスしている。
バラエティは、同じ日本人同士、男性同士、女性同士、同世代同士、という、まさに「同士」の中での違いなのだ。
このことは、同属であるがゆえに、価値観が一緒ではないことへの不快感を高める傾向にある。
三島由紀夫は『不道徳教育講座』のなかで、下手に同じ趣味の者同士が話し出すと、些細な違いが決定的なものとなる場面を描いている。
一口に音楽鑑賞が趣味といっても、クラシック好きとロック好きでは反りがあわない。
いや、むしろ同じロック好きのほうが危ない。些細な違いが異なるスタンスを生むのだ。
オルタナティブ・ロックを標榜するアーティストは、いわゆるメインストリーム・ロックやスタジアム・ロックといっしょくたにされることを極度に嫌う。ファンも同じだ。ロックというフォーマットを共有しながらも、それぞれの音楽に傾倒するゆえに、相手が認められない。
むしろ、同属だからこそ価値観の違いが顕著に感じられる。
これならば、かえって音楽に興味がない人といるほうが、平和に暮らせるくらいだ。
こうした相違(多様性)は、私たちの身近に溢れている。
それは、人種・国籍・性・年齢という分かりやすいモノサシがない、「小さな多様性」なのだ。
パートナーからの
全身全霊のメッセージ。
ダイバーシティの重要性は声高に叫ばれる。だが、バラエティを認めようという声は小さい。
究極の個は属性に解消されてしまって、その声が届かない。
同属は同じであることが前提とされ、同属であるがゆえに我慢を強いる。ときにそれは「協調」という言葉に巧妙に隠されて行われる。近しいからこそ、些細な違いが許せない。
意識が高い人ほど、「社会」や「世界」を目指す。
でもそのまえに、目の前のパートナーを幸せにできているか。
そこにこそ、「意識が高い」私でありたい。
パートナーの在り方を認めることは、私の世界を押し広げることだ。ダイバーシティという指標では測れない、生々しい日常。
そのために彼・彼女は今日も「性格の不一致」で私を揺さぶってくれる。「不一致」こそ多様性の入り口。そして企業のダイバーシティ同様、それを認めることは自己の “利益” にも繋がる。
「ほんの些細なこと」を受け入れることは、私が他者と幸せにくらすうえで「重大なこと」。自利と利他は分かちがたく結びつく。
目の前の最愛の人だけが、そのことを私に教えてくれる。
悲しいことに、どうでもいい人から、そのことを学ぶことはできない。切実に身につまされることがないからだ。だからそれは、いつも必然的に、大切な人から「身をもって」なされ、ときに「身を削って」伝えられる。パートナーからの全身全霊のメッセージ。
多様性はすぐそこに。試されているのは、私たちの愛情かもしれない。
文:可児義孝 絵:たづこ
tabinegoto#13