バイブルは更新されない。
情報とは命令である。(マルティン・ハイデガー)
「そう言われれば、そうだな」と思わず頷いてしまう人が多いんじゃないでしょうか。
事実、情報はそれを聞いた者に一定の行動を促します。
私たちは多くの情報を手にすることができるようになりました。
ですがそれは同時に、「私たちは日常的に多くの命令にさらされている」のかもしれません。
どういうことでしょうか。
情報を活用しているようで、
情報に駆り立てられている。
「○○の食材に含まれる○○という成分が○○病の予防効果がある」
「新作アプリの〇〇は以前の〇〇よりずっと使いやすくて効率的」
「2021年の春夏ファッショントレンドはコーデに○○カラーを取り入れること」
どれも既視感がありますよね。
私たちはこうした無数の情報に囲まれて暮らしています。
一読してわかるように、これはある行動を促しています。
つまり、命令として機能している。
食べ物がいい例です。
情報番組で「脂肪燃焼に○○が効く!」と報道されれば、翌日には○○の売上が増加する。
多くの場合、数年後にはより効果的なものが発見され「脂肪燃焼のカギは、実は△△だった」のような発信がなされます。
そうなると私たちは、以前の○○から新しい△△へと移っていきます。命令は変更されたわけです。
○○に何が入るかは別として(その多くは入れ替え可能)、こうした情報は常に更新されていきます。
情報はすぐに「古く」なり、新しい情報がそこに「上書き」される。
そうして「最新」であることに価値がおかれます。
○○より△△、でも実は△△は脳によくない、それより✕✕が安価で安全。✕✕より□□のほうが簡単に摂取できる。さらに最新の研究では……エトセトラエトセトラ。
私たちは必死で情報を追いかけます。
情報を聞き逃していないか。自分だけ命令に背いていないか。命令に背くことはリスクを侵すこと。
そうして、一種の強迫観念のように、より効果的で経済的で合理的な解を求めていきます。
でも、その解が正しいという保証は誰もしてくれません。
何が正しくて、何が間違っているのか、どの情報を採用するのか、その判断は困難を極めます。
情報を活用するつもりが、情報に駆り立てられ憔悴してしまう。
情報に囲まれ豊かに生きるつもりが、かえって情報によってやせ細っていく。
苦しい、ですよね。
聖典は更新されない。
読むことで私が更新される。
いっさい情報が更新されない世界があります。
なんだと思いますか?
それは聖典と呼ばれるものです。
キリスト教における聖書、イスラムにおけるクルアーン、仏教における仏典、天理教における おふでさき。
それらのテキストはいっさい更新されません。
更新されることを拒んでいる。
更新すると、それはもはや “聖典” ではなくなってしまいます。
こうしたテキストは、情報のように短絡的に私たちを駆り立てることはしません。
もっと “味わっていくもの” としてあります。
一つ一つの文字が形作る言葉の意味を丁寧に探っていく。
自分自身と向き合っていく。
そこで悟ったことを自らの生き方に反映していく。
再びテキストと向き合っていく。
そうしてまた自分自身と──。
そこにあるのは、テキスト / 自己 / 生活世界、その3者を繰り返し繰り返し巡っていく、果てのない “読み” の試みです。
これほどまでに「言葉を大切にする」人の営みはありません。
そこに、古くなった情報を使い捨てるような身勝手な振る舞いが、入り込む余地はありません。
こちらの姿勢に呼応するようにして、豊かな世界を示してくれる。
それが聖典と呼ばれるものです。
それは更新される情報とは対局の更新されない情報。
ゆえに、私自身が更新されていく。
情報化社会における強迫じみた焦りや憔悴とは無縁の、確かさ、安らぎ、豊かさ、そしてある種の決意や勇気を呼び込む、そうした力が聖典には宿っています。
人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。
(マタイによる福音書4・4)
聖句の力は偉大です。
言葉を知識として “知っている” のではなく、そうした世界に “生きる” のが信仰です。
それは情報を活用するのでもなく、駆り立てられるのでもない、第三の道と言えるかもしれません。
読めるけど、読めない。
だから、読み続ける。
でも僕たちは苦手です。
聖典を聖典として読むことが。
だから通り一遍の読み物として、知識として吸収、インプットするとそれで終わってしまう。
「読んだ」のだから「読了」です。それは「終了」したことを意味します。情報なら得てそれでお終いですから、それでいいんだと思います。
アウトプットも聖典の解釈や意味を他者に上手に説明することだと思いこんでしまっているむきがあります。
これは、大きな落とし穴です。
それは聖典としてではなく、単なる情報としての在り方です。
でも、そうではないでしょう。
信仰におけるインプット(この言葉を用いるとして)は言葉を自らの血肉とすることであり、アウトプットは生き方のうえに現れていくものです。
めへ/\のみのうちよりのかりものを
しらずにいてハなにもわからん
銘々の身の内よりの借り物を 知らずにいては何も分からん ※漢字は筆者による
(おふでさき 3-137)
「身体は自分のものじゃない、かりものね。なるほど、分かったよ。たしかに自分の思い通りにはならない。いい考え方だね」
そういう人はおそらく情報として処理しているのです。
だから「分かった」となる。既読マークがつく。
私の恩師はそうした姿勢を「行き詰まりだよ」と言って、厳しく戒められました。
その恩師は、聖典の言葉の一つ一つが身体に息づいているような方でした。
そこまでいくには、本当の意味でテキストと向き合うことが必要です。
繰り返し繰り返し、真摯に向き合う。
そうして言葉と共に生きることによって初めて、私たちは豊かな境地へと導かれていくのだと思います。
僕はこの文章で「だから信仰しましょう」と宣伝してまわるつもりはありません。
きっと、信仰によらずとも、健康で豊かに生きることは可能です。
でも信仰には、情報でやせ細っていく生を、再び豊かに肥えさせる力があると感じます。
「情報とは命令である」
その命令に怯え、右往左往する人生は苦しいものです。
そうではない生き方が、ここにはあります。
人はバイブルという芯を持つことで、情報に振り回されることなく、確かな足場からそれらを眺め、活用することができるようになる。
もっと言えば、
バイブルと出会う。
バイブルを持てた。
そのこと自体が、とても幸運なことだと思うのです。
文:可児義孝 絵:たづこ
tabinegoto#17