見て共に楽しむ。

東京オリンピック・パラリンピックでは、海外からの観客の受け入れを断念することが決まりました。

観客がいなくとも、競技自体は成り立ちます。極限すると、競技に適した会場があり、選手と審判がいれば、競技としては成立します。観客は競技そのものを構成する要素ではないからです。

聖火リレーもコロナウイルスの感染拡大を懸念し、沿道の人は厳しく制限されています。聖火ランナーへの声援も少ない。たとえ声援が途絶えても、それによって聖火が消えることはありません。観客が聖火に影響を与えることはないからです。

そういう意味では「観客」の要素は、不可欠なもの、エッセンシャルなものではないのかもしれません。

こどもの「みてー」は
人の根源的な欲求。

観客はプレイしません。あくまで、プレイを「観る」側です。では、プレイヤーは「観られる」ことを必要としないのか───。

こどもといると、繰り返し耳にする素敵な言葉があります。

「おかーさーん、みてー」

「おとーさーん、みてー」

こどもがその魔法を唱えると、僕のデスクワークは強制終了されます。
知的な作業の場合、一度集中が途絶えると、なかなかもとに戻ることができません。
そんなとき私は、

「いま、しごと! あとで!」

と目も合わせずに返してしまうことがあります。それでもこどもは、「みてみてー」と何かするたびに言ってきます。

僕は、この言葉がずっとひっかかっています。仕事が中断するイライラもさることながら、切ない気持ちがつのります。なぜか。

「みてー」は、人が生きるうえでの根源的な欲求ではないか。
ここにはなにか、とても大切なことが隠されているのではないか。

そう思えてならないからです。

・私という存在を認めてほしいという「承認」

・他ならぬあなたにみてほしいという相手への「承認」

・そのあなたに私の経験を贈りたいという「贈与」

・それを共に分かち合おうとする「シェア」

・みてくれる人がいるという「安心」と「期待」

「みてー」には、そうした人が生きるうえでとても大切なものが全てつまっている。

そう思うのです。

だからこの魔法の威力は絶大です。こどもだからと軽くスルーしては、僕も、彼・彼女もダメージを受けてしまいます。

どうやらこどもは、無観客では、健やかに成長することは難しそうです。

「見てくれてたんだ」は、
傷を癒やす力となる。

こどもがいつも口にするその言葉を、私たち大人はあまり口にしません。

でも、「みてー」はとてもピュアな欲求です。

だから、
大人だって「みて」ほしい。「みて」くれる人を信用し、大切に思う。そこに愛情を感じます。

また、「みてくれてたんだ」という実感は、何か深いところで私の存在を癒やしてくれるようです。
反対に「みてくれていない」という気持ちを抱くと、心の奥深くに、寂しさや悲しみが積もっていくように思います。このことは、普段は意識することはありませんが、「誰も私のことを見てくれない」と孤独を抱えるときには、そのことが痛切に感じられます。

「みてくれてたんだ」には、傷を癒やす力がある。「みる」にはそれだけ不思議な力が宿っている。

小学校教諭の友人が、

親も、先生も、職場の上司も、スポーツのコーチも、「褒め方」や「叱り方」を勉強する人は多いけど、それ以前に、もっとも大事なのが「みる」ということ。極端にいえば「みてもらっている」という実感があれば、その人の言うことなら、褒められても叱られても素直に聞ける。

ということを言ってました。

「みる」はスキルではない。表面ではなく相手を深いところで肯定する。「みる」は関係性なのです。

無観客であってもオリンピックはできるし、聖火の火は消えない。けれど、人が生きるうえでは「自分を見てくれる」観客がいなければ、人生の舞台を続けるのは難しいし、その魂の輝きは失せてしまいます。

「見て共に楽しむ」
の時空は広い。

そしてまた僕たちは「見て共に楽しむ」ことができます。

単に「楽しむ」のではなく、「共に」楽しむ。プレイヤーと観客が一体となって楽しむ。
それまで he/she と I に分かれていたものが we になる。一人称単数が一人称複数へと自己を拡大していく。

「みる」には、
遊ぶこどもの、全力で競技に挑むアスリートの、熱演を振るう舞台俳優の、仕事に打ち込む同僚の、
身体感覚や感情が “みている側へと流れ込んでくる”、そんな感覚を覚えます。
それは観客を客(体)から主(体)へと自然のうちに変容させてしまう力。

そうして私たちは自分の生活とはなんら関係のないスポーツを観戦しては一喜一憂したりする。
他者の喜びや落胆が自らのものとして感じられる。

考えてみればすごいことです。そこでは、みる側とみられる側に確かな繋がりが生じています。

見て共に楽しむ。
そんなことをする生き物は(おそらく)他にありません。とてもユニークです。ユニークだということは、それは “人間らしさ” といって差し支えないということ。

考えてみれば、「アスリートの祭典」と言われるオリンピックも、僕の記憶は常に無数の観客、そして割れんばかりの歓声と共にありました。
それらは競技自体と不可分に結びついています。

「みてー」の呼びかけには、
幸せな響きが宿っている。

今日も子どもたちはせっせと僕の仕事の “邪魔” をしにやってきます。
僕はその「みてー」について、つらつらと考えを巡らせながらも、いつものように「あとで」と口にします。

───いつか、この「みてー」も聞けなくなる日がくるんだろうな。僕が言わなくなったように。

ふと、頭をよぎります。息子が声をかけてくれたときは応えなかったのに、いまになって「みてあげたい」という気持ちが、ふつふつとわいてくる。僕はいつも、この「時差」に泣かされます。
明日は「いいよ」と言って、パッと息子のほうを向いてあげよう。
そんなことを何度も考えては、できたりできなかったりを繰り返す。

きっと、「みてー」の呼びかけには幸せな響きが宿っている。

これからは、すぐそこにある幸せを “邪魔者扱い” するのはやめよう。

今日も世界中で繰り広げられる「みてー」「なーに?」のやり取りは、ありきたりな、取るに足らない、けれども、とてもピュアでエッセンシャルな、「私」と「他者」を結ぶ営みなのです。

見て、共に、楽しむ。

「共に」という we を、これからどこまで広げられるか。そのときの「楽しむ」はいまの僕が感じる楽しさとはどう違うか。

4年に一度と言わず、何気ない日々のただ中で、そうした心境を培っていきたいと思います。

それぞれの作品を「みてー」と母親に近づく親子

文:可児義孝 絵:たづこ

tabinegoto#19

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