祈りの強さ。
世界にはさまざまな宗教がありますが、いずれも定められた祈りの形式があるようです。
天理教の教会では、朝夕の定められた時刻に次の言葉を唱えます。
あしきをはろうて たすけたまへ てんりおうのみこと
悪しきを払うて 救けたまえ 天理王命 ※漢字は筆者による。
これは特定の音頭と手振りをともなう歌(「みかぐらうた」と呼ばれます)の一節で、その最初に唱えられるものです。
21回繰り返し唱え、その後に拝をし、次の歌へと続きます。同じ言葉を21回も唱えるのはこの箇所のみで、以降は一部を除き、基本的には1度唱えるのみとなります。
あらためて文字にすると、なんとなくネガティブな響きを感じます。
神への賛美でも感謝でもなく、幸せを願うことでもなく、冒頭いきなり「悪しきを払う」と唱えるのですから。
ここでは、自身に「悪しき」があることが、前提とされているようです。
自分になにかしら「悪しき」があるということ。それを「払う」よう祈ること。
続けて「救けたまえ」と唱える以上、ここにいる自分は「まだ救われていない」かのようです。それを朝一番に唱える。あたかも今日という日がマイナスからスタートするようです。
──暗い。
私たちは何かしら悪をなしたのでしょうか。
朝夕に唱えることは、私を「悪しき」がある者ととらえることに繋がらないでしょうか。
ネガティブな自己イメージとならないでしょうか。
それは私たちの力を奪いはしないでしょうか。
私の経験からするとそれは違います。
むしろ、謙虚で、しかも内からわく確かな力を、そこに感じるのです。
人が生きて暮らすからこそ、
そこに埃は舞う。
新型コロナウイルスが猛威を振るうなか、私は教会内外の掃除をすることが多くなりました。
玄関の掃き掃除に水撒き、廊下の掃除機がけ、階段の水拭き、台所や洗面所の掃き掃除に水拭き、トイレ掃除、雨後の草抜き。
多くの人が感じることですが、掃除は始めるまでが億劫で、やりだすと気持ちの良いものです。
また、続けることで、いままで気づかなかった汚れにまで目がいくようになります。それまで放っておいた場所まで、掃除の手が伸びるようになる。そのうち、掃除をしやすくするためモノを置かないことを意識したり、どうしたときに汚れてしまうか、その発生源を考え、防止につとめようとする。
それでも、ゴミやホコリ、汚れがゼロになることはありません。人が集まる空間ほどホコリは出ます。
人が生きて暮らす、そこにどうしてもホコリは生じるのです。
私たちの心も同じかもしれません。
私たちが生きて暮らす以上、そこにさまざまな心が生まれる。利他的なきれいな心ばかりではない、利己的な心が生じることも多々あります。
私たちの信仰では、そうした人の心が為す「悪しき」を「ホコリ」ととらえ、それを「払う」ようにつとめます。それはいわば「胸の掃除」です。
あしきをはろうて たすけたまへ てんりおうのみこと
朝夕の神殿での祈りは、神を箒(ほうき)として胸にたまったホコリを払う、その祈願なのです。
そうであるなら、その祈りの文言に暗くなることはありません。
人が生きる以上、ホコリは生じます。それは自然現象に近い。部屋にたまったホコリを目にし、罪悪感にとらわれ、自己否定する必要はありません。
また、掃除は、やりだすと気持ちの良いものです。
たしかに汚れそのものは気持ちのいいものではありませんが、部屋の掃除でも、かかれば溌剌(はつらつ)としたエネルギーがわいてきます。それは掃除が終わった爽快感ではなく、掃除という行為自体が持つ力です。
このことは、胸の掃除も同じです。気力が奪われるのではなく、むしろ積極的に生きる力がわく。
そして、掃除は奥が深い。そこで、いままで気づかなかったホコリ(自分)を発見することもあるかもしれません。
ただ一方、「自分に悪はない」とする人がいるとしたら、その人にはこの祈願は不要かもしれません。
心を耕し、悪しきに気づく。
そこで祈りは十全となる。
児童文学研究者であり、『ゲド戦記』の翻訳で知られる清水眞砂子さんに、次の言葉があります。
「絵本を読んであげると、心がおだやかになる、やさしくなる、っていうけど、それって(実際に得られることの)半分じゃないだろうか。自分の中にも、殺意がある、意地悪がある。本を読むってことは、心を耕して、自分の中に魑魅魍魎(ちみもうりょう=様々のばけもの)があると気づいて、(それでようやく)心が豊かになる」
私は、このことは信仰についても言えると思うのです。
人のため、感謝の心で、喜び勇んで… 信仰はそうしたポジティブな「ワード」で語られがちです。講話も紙面も、気づけばそうした言葉で溢れかえっています。でも、それは──半分じゃないだろうか。
心がおだやかに、やさしくなることは、信仰の半分。
もう半分は、自分の中にも殺意がある、意地悪があると、気づくこと。
「殺意」と聞くと、あまりに物騒で怖いですが、その「怖いもの」が自分の中にもたしかにある。それは、外の世界、「外部」にばかり危険を押しやり、私は別だと安心するのではなく、自分の内なる「悪しき」に自覚的であることです。
それはまた、世界(外部)を見る目を新しくしてくれます。なぜならそこに「私」を見るからです。
天理教の朝夕の祈りにおいて、「悪しき」の手は、胸前で合掌する手です。
この合掌の手は、神の名を唱える際にも用いられ、神、もしくは神前で祈る人の姿を比喩的に表していると思われます。
「悪しき」と「合掌の手」は直ちに結びつきませんが、ここでは「悪しき」は自分の都合で判断するものではなく、「神(の教え)を前にして、はじめて明らかになる」と理解できます。
光が射すからこそ、影が姿を現す。
自分とは別の視座をもつことで、はじめて見えてくるものがある。
神の話にふれることで、奥深く、耕かされる心がある。
そのように思うのです。
自分の中に巣食う魑魅魍魎を感じるから、「あしきをはろうて」が自分の言葉として、強度をもった言葉として発することができる。神に向かう発話。それは言霊です。
そのとき、精神に張りが生まれ、善く生きんとする決意が心の内で反芻され、増幅されていく。
同時に、神を箒とし、神の守護によってなされるという謙虚さが涵養される。
あしきをはろうて たすけたまへ てんりおうのみこと
それは、自身のもろもろを引き受けつつ、与えられた今日一日を勇んで歩もうとする力と、その成就を神へ委ねることと。その二つが一つとなった、祈りの言葉です。
文:可児義孝 絵:たづこ
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