人生のBGMに耳を澄ませよう。

「おとうさんトイレにつれてってー」

「えぇっ!いまからー!?」

冬の北海道。布団から出たら最後、そこは極寒の地だ。
さんざん逡巡したのち、僕は諦めてしぶしぶ返事する。

「いいよー」

4歳の娘を抱きかかえてトイレに連れて行く。猛ダッシュだ。それは一刻を争う寒さとの戦い。

一方、娘は娘でたいへんな恐怖と戦っていた。
部屋からトイレまでは長い廊下がある。
娘は夜の廊下が苦手だ。

そこには魑魅魍魎(ちみもうりょう=さまざまな化け物)がいる。

僕には見えない。彼女にはそれが見えるらしい。

変わるのはルクス(光量)
ではなく、空間の質。

昨年末から、僕たち親子はすっかりアニメにハマった。

『鬼滅の刃』に『呪術廻戦』。こどもたちと一緒に観るそれは、大人も十分楽しめるエンターテイメントだ。

問題は、そこで主人公が戦う相手だ。それぞれ「鬼」と「呪い」(妖怪のようなルックスの化け物)だ。

「鬼」は日光が弱点で、闇夜に人を襲う。

「呪い」は日中も活動するが、やはり暗くジメジメした場所を好むようで、作中では壁や天井からぬら~っと現れてはこどもたちを驚かしている。

こうしてアニメにハマったこどもたちは、それまで感じていなかった恐怖を「夜の廊下」から感じるようになった。

その恐れは「暗がりは何が出てくるか分からない」という危機回避を促す動物的な本能もあるだろうが、それだけではない。こどもが向ける恐れの対象は「鬼」(鬼滅の刃)や「呪い」(呪術廻戦)なのだ。

暗闇に鬼や呪いが身を潜めている。

トイレまでの同じ距離も、夜のそれにはずっしりと重い意味がのしかかる。夜になり変わったのは、どうやらルクス(物体の表面を照らす光の明るさを表す物理量)だけではないようだ。

そこには等しく数値化された距離や光量といった科学的な概念では測れない力が、生き生きと働いている。

娘は薄暗い照明が照らす物の影に鬼の表情を読み取り、雨音や建物がきしむわずかな物音から呪いの存在をキャッチしている。

あのボール遊びした昼の廊下と、いま目の前に延びる暗い空間は、まったくの別物なのだ。

廊下は「夜モード」に入った。
娘はそのモードをしっかり感知している。

───どうやらアニメは画面の枠を超え、私たちの住む現実の世界まで浸透してきているようだ。

同じ映像もBGMによって、
その意味合いが変わる。

僕が思うに、こうしたアニメが及ぼす影響は、映画の「BGM」に似ている。

同じシーンでも、流れるBGMによって、私たちの受ける印象は大きく異る。

たとえば同じ戦闘シーン。
悲しい旋律が流れれば私たちは「誰も望まない悲しい戦い」という印象を抱くし、アップビートの曲がかかれば「興奮し手に汗握る戦闘シーン」、クラシックなら「観るものを魅了する優雅な戦い」、といった認識を抱くだろう。

これは映画の世界の話だが、現実に生きる私たちもやはり、個々人に特有のBGMをかけて、それぞれの日々を送っているのだと思う。
「BGM」が分かりづらいなら「世界観」に置き換えてもいい。このことは、こどもに限った話ではないはずだ。

そのBGMが悲しい音色なら、万事悲哀の色彩を帯びるだろうし、穏やかな調べなら、様々な場面にぬくもりを見出すだろう。

きっと、夜の廊下を前にしたこどもたちは、『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』で流れる不穏なBGMをガンガンに鳴らしているのだ。
そのBGMに呼応するように、夜の暗がりから鬼や呪いが姿を現す。
こどもたちは怖くてトイレに行けなくなった。BGMがこどもの足をすくめている。現実に確かな作用を引き起こしている。

そこには、「現実」と「私」の交渉がある。

私たちは味気ない事実の束を生きているわけではない。

ある意味で私たちは “事実以上” に濃厚な色彩を生きている。

現代では、仕事上での成功や他者との優劣を競う「戦闘シーン」や、「○○でなきゃいけない」「○○ねばならない」と自己や他者へと圧をかけるような「緊迫シーン」の音楽がいたるところで鳴り響いているように感じる。

そんなBGMをずっと聞き続けたら、人が心を病むのは自然だろう。
それらもまた「鬼」や「呪い」を生み出しているのかもしれない。

そう思うと、僕の暮らしに流れるBGMはどんな音色だろうと思う。

それは私たちの日々に溶け込む “背景” の音楽。
意識されることのない、私の背後にあって静かに、しかし確実に響いている音楽。

きっと僕らは無意識のうちにその音楽に彩られた日々を送っている。
あたかも自身の内で脈打つ鼓動を、意識することがないように。

でも、こどもたちを見ていると、その存在の確かな働きを感じずにはいられない。

僕は僕のBGMに耳を澄ましたいと思う。

きっとその音色は、僕を構成する一部となって、僕の生と分かちがたく結びついている。

信仰は耳を澄ますこと。
新しいリズムに合わせて踊ること。

誤解されがちだが、信仰は、強力なBGMによって無理やり人間性を変えるものではない。
───と少なくとも僕は思っている。

そうではなく、信仰が私たちにオファーするのは、自分のBGMの存在に気づこうと、耳を澄ましていくことだ。

私のBGMが世界を “実際以上” に悪いものに歪めてはいないか。

自らの心の癖や性分で無自覚のうちに、世界を加工してはいないか。

こうした自分自身と向き合う在り方を、私たちの信仰の場では “心を澄ます” と表現し、とても大切にしている。

そのうえで私たち信仰者は、それぞれが信じるもの、イエスやシッダールタ、天理教ならおやさまの言葉(おしえ)から流れてくる音色に、自身の生き方を合わせていく。

こちらに合わせるのではなく、こちらから合わせていく。
今までの自分にはない、新しいリズムが生まれる。
そうして与えられた日々をダンスしていく。

太鼓の音に足の合わぬものを咎(とが)めるな。その人は、別の太鼓に聞き入っているのかもしれない。(ヘンリー・デイビッド・ソロー)

いい言葉ですね。

信仰の持つリズムは、今までのどのBGMとも違う、聞き慣れないものだと思います。はじめは戸惑い、うまくリズムにのれないかもしれない。

でもそれはきっと、私たちの日々に新しい命を吹き込んでくれる。

たとえばそれは、ときに「娘を抱きかかえてトイレに走る、この日々こそが奇跡なんだ」と、気づかせてくれたりするのです。

暗闇に延びるオバケの影

文:可児義孝 絵:たづこ

tabinegoto#15

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