書を眺めるには筆を取れ。

大人になってから書道を習い始めた私。
数年前、思い切って毛筆での年賀状書きにチャレンジしました。
が、すぐに断念。
あまりの下手さにがっかりしました。

「おかしいなぁ、書道教室ではもう少しマシに書けているのに…」

少なからぬショックを受けたのを覚えています。
でも、これには理由があります。それは、

お手本がないから。

書道教室では、お手本を横に並べ、それを真似るようにして文字を書きます。
これを「臨書」といいます。

ところが私的な年賀状執筆には当然お手本はありません。
よって自分のイメージを頼りに書くことになります。
するとどうでしょう。

臨書だとそれなり(?)と思っていた自分の字が、途端に以前の字に逆戻り。
持ち前の癖や性分がはっきり字体に現われています。

「お手本って大事だなぁ」

と、身にしみて感じました。

臨書は「見るために書く」。

こうした「臨書」の大切さについて、書道漫画『とめはねっ!』(河合克敏著)には次のように書かれています。

臨書には大きな意味がある。それは “書く” ほうが、より “見られる” ということ。ただ漫然と古典の書を見るより、横に並べて実際に真似て書くほうが、はるかにたくさんの発見がある。“書くために見る” のではなく、“見るために書く” と言ってもいい。そちらのほうが大事

───驚きました。
「見るために書く」なんて思いもよらなかった。しかも「そちらのほうが大事」。

まさに、コペルニクス的転回。
臨書の見方が180度変わった瞬間です。

そこで思いました。

信仰の歩みを続けるなかで、教祖の通った道や、聖典を始めとする数々の言葉、それらに感動を覚えなくなるのはなぜか。

それは自分が “書く” 作業を怠っているからだ、と。

だからこそ “見る” ことができない。

そして、信仰者にとっての “書く” とは、その信仰が教えるところの「生き方を実践」する、つまり「道を歩む」ことだと思うのです。

それまで単に眺めるだけだった書作品。
筆を持ち書くようになって初めて真剣に手本を “見られる” ようになりました。

こちらが真摯に取り組めば取り組むほど、全体の構図やバランスをはじめ、入筆の角度、送筆の強弱、運筆のリズム、墨汁の含み具合、文字の意味や字源、そうしたディテールにまで眼が向くようになります。そしてまた全体を眺める。するとより鮮やかに作品を感じ取ることができます。
それまでは見ているつもりで、見れていなかった。
「書く」ことで初めて「見れる」。

同じように、自らが道を歩む中で、教祖の伝記や聖典に触れてこそ、感じ取れる世界がある。
きっとそこには、ただ “音読” しているだけの聖典や教典では見ることのできない、素晴らしい景色が広がっているはずです。

お手本を真にお手本たらしめるのは、それと向き合う私自身の姿勢にあります。

そこに「ぱっと見」では見えない世界が、厳として存在している。

自らが筆を取ることで初めて、お手本はその深遠な世界を開示してくれます。

「心を澄ます」と「見える」

こうした「見る」ことについて、天理教の聖典おふでさきには、次のように記されています。

この心すむしわかりた事ならば
そのまゝみゑる事であるなり

この心 澄むし分かりた ことならば そのまま見えることであるなり
(おふでさき 5-77)

にち/\にすむしわかりしむねのうち
せゑぢんしたいみへてくるぞや

日々に澄むし分かりし胸の内 成人次第見えてくるぞや
(おふでさき 6-15)

「心を澄ます」ことで「見える」。

信仰実践という「書く」行為を通して「心を澄ます」から、「見えてくる」。

とてもシンプル。

そういう意味では、私たちはもしかしたら、盲目なのかもしれません。

でもそれは、悲しいことではありません。
それは一つの気づきであり、可能性です。

世界はたくさんの未知を抱えている。

僕にはそれは、楽しみと映ります。

「臨書」は本当の意味でお手本を「見る」ためにある。

残念ながら書道は長続きしませんでしたが、信仰の「道」は、生涯にわたり歩み続けたいと思います。


筆を握る手


文:可児義孝 絵:たづこ
(イラストは後日アップします!)

tabinegoto#20

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