それなのに喜びが湧いてこない。

「健康」とはどういう状態を指すのでしょう。

「健康」の定義はなんでしょう。

こう聞かれると案外困ってしまいます。
はっきり答えるのは、むずかしいことです。

「幸福の条件」のアンケート調査ではトップ常連。それを得るためのノウハウ本や食品、サプリメントなどは世に溢れる。世界中の誰もが一致する望み、健康。

それはいったいどんなものでしょう。

病気がないことが健康なら
「健康」は存在しない。

ある医師が医学のプロを目指す研修医に同じ質問をしたところ、みんなしどろもどろだったそうです。
日本を代表する優秀な医学部の学生から明確な答えが返ってこない。なかでも一番多かった回答は、「病気ではないこと」「ケガがないこと」「検査数値に異常がないこと」だったといいます。「○○ではないこと」。つまり、誰も「健康そのもの」については答えられなかったということ。

不健康でないことが健康。言い換えれば「非・不健康」とでもいうような状態、それが健康である。もしそうなら、健康とは「不健康がなければ存在しない」ということになります。
おかしいですね。誰もがその価値を認め、手にし、維持しようとする健康が不健康にもたれかかった存在だなんて。誰も健康を直接指差すことができないなんて。それに比べ、不健康な状態のなんと明確なことか。

人は不健康な状態にあるとき、病状や顔色、呼吸や動作から、すぐにそれと知られます。
けれども人が健康であるとき、きらきらと輝くオーラを放ったりはしません。むしろ本人も周囲もきわめて自然な感じを抱くものです。それは私たちに特段なにかを意識させたりするものではありません。
健康は絶え間なく「ある」ことで、「ない」も同然にさせてしまうのです。
ちょうど人類が、ずっと重力のなかにありながら、その存在に気づいたのがつい最近だったように。

人は健康のただなかにあって、その健康を感じ取ることは、とても苦手なのです。

事実は、私たちは、
あまりにも与えられている。

私の信仰の恩師は、私が出会う晩年には度重なる脳梗塞により半身不随の身でした。
その恩師は全身麻痺の方との交流を通じて感じたことを次のように話してくれました。

もしもその方が、どちらか片方の手がぴくりとでも、指一本でも動いたら、気が狂ったように泣き叫んで喜んだと思うんです。
その御守護(自由に指を動かせる健康状態)を今、私も皆さんももらってるんですよ。
それなのに喜びが湧いてこないというのは、どういう訳でしょうか

私は深い感慨を覚えました。それ以降、何度この言葉を反芻したか分かりません。

神殿掃除などの奉仕活動のさなか、私はよくこの言葉を思い出します。
「いつも神様とともにある先生が、どれほど願ってもできないことを私はさせてもらっている」
そう思うと、箒で畳を掃くのも、布巾でお社を拭くのも、拍子木(天理教の祭儀で用いる)を両手で握り鳴らすことも、神前で手を合わすことも、───その一つひとつに静かな喜びが生まれます。

もしかしたら、私たちは不感症なのかもしれません。
というより、不感症であることが正常なのかもしれない。
それほど圧倒的に与えられている。
そのすべてに敏感に反応し、いちいち感動していては、日常が送れない。
それこそ「気が狂ったように泣き叫んで喜んで」しまうかもしれないのですから。

でも恩師の言葉は告げています。

私たちはそれほどのものを日々いただいているんだよ、と。

いただきますの合掌をする青年

文:可児義孝 絵:たづこ

tabinegoto#31

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