信仰ってなんだろう?日常をちょっと違った角度から眺めてみる。あるいはちょっと視点を上げてみる。そうすると、見慣れた景色も違った表情を見せてくれるかもしれません。「旅寝言」は信仰と日常の接点を探すエッセイです。
2021年6月28日 / 最終更新日時 : 2021年6月28日 yoshitakakani 旅寝言 -tabinegoto- その闇は、あなたの深さ。 全力を投じても何も返ってこない、報われない、こんな辛いことはありません。私自身、そんなときは虚しさでいっぱいになります。その感情はどこまでも私を掘ります。それは今まで気づかなかった心の領域。報われなさは、報われないことで、あなたの希望とは違う形であなたの生に報いているのかもしれない。深く沈んだ夜に読んでほしい文章です。
2021年6月21日 / 最終更新日時 : 2021年8月9日 yoshitakakani 旅寝言 -tabinegoto- 奇跡ではなく “理” を信じる。 私は奇跡があまり好きではありません。今回のことは特別、あの人だからできた、たまたま、偶然、運が良かった。そうした “レア” が奇跡です。言い換えると、奇跡とは “例外” です。例外は参考にならない。私の生を潤さない。信仰はそうした「神頼み」のような不安定なものではないはず。──では私たちは何を信じるのでしょうか。
2021年6月14日 / 最終更新日時 : 2021年6月28日 yoshitakakani 旅寝言 -tabinegoto- 人は言葉を食べて生きている。 赤ちゃんは、聞こえてくる言葉を自分の中へ取り込んで言葉を覚えます。それが日本語なら日本語、英語なら英語。置かれた環境の言葉を身につけます。私たちは生きるのに必要な言葉を、自分で作り出してはいません。まわりに存在する言葉を耳で食べ、消化・吸収しているのです。それは次第に、「私」の心(世界観)を形作っていきます。
2021年6月7日 / 最終更新日時 : 2021年6月7日 yoshitakakani 旅寝言 -tabinegoto- 不自由の女神 手を使えないサッカー。その制約が選手に美しいプレイを創造させます。十七音の文学、俳句。その限定が言葉の力を最大限に引き出す芸術を生みます。厳しい制約(ルール)は人を工夫させ、鍛錬させ、自己を高める契機となる。私たちの実生活もまた、様々な制約の中にあります。それは私たちを新たな境地へと導く、不自由の女神かもしれません。
2021年5月24日 / 最終更新日時 : 2021年5月24日 yoshitakakani 旅寝言 -tabinegoto- あなたは贈与でできている。 私はときどき、自分が空っぽな人間だと思います。自分の文章を空虚だと感じます。あなたは、ふいにそうした気持ちに襲われることはありませんか?自分で自分の価値を認めることはなかなか難しいものです。それでも私は胸を張って生きようと思います。それは、自分のなかに流れる大切な存在を信じるから。私は私だけでできてはいないのだから。
2021年5月17日 / 最終更新日時 : 2021年5月18日 yoshitakakani 旅寝言 -tabinegoto- 神の子どもたちはみな遊ぶ。 「夢は?」と聞かれれば、「一生遊んで暮らすこと」と答える。大人になって、よく考えて出した答えだ。もちろん、夜遊び、火遊び、女遊びの類ではない。最近よく聞く「遊びを仕事にしよう」的なものでもない。意味するところは、「何事も遊びであるかのように、楽しめる人間でありたい」ということ。それはきっと、こどもと、神様の振る舞い。
2021年5月10日 / 最終更新日時 : 2021年5月13日 yoshitakakani 旅寝言 -tabinegoto- 僕らは遊ぶために生まれてきた。 「人は何のために生きるのか」あなたはどう答えますか?「そんなの答えようがない。そもそも設問が間違っている」そうかもしれません。でも、私はこう答えます、「僕らは遊ぶために生まれてきた」。これは、ロジカルでマジカルな “答え” です。なぜなら、遊びだけがあらゆる問いを遮断するから。「人間の本質は遊びにある」というお話です。
2021年5月3日 / 最終更新日時 : 2021年5月3日 yoshitakakani 旅寝言 -tabinegoto- こどもの哲学を忘れるな。 「こどもの哲学を忘れるな」、僕の心にすっと入って居続けるこの言葉。不思議とネットで検索してもヒットしない。けれど僕は、とても大切なことだと直感した。「なんで?」「どうして?」こどもが繰り返すその言葉を、私たちはいつしか口にしなくなった。だが、問うことをやめてはいけない。切実な問いだけが、新しい世界を拓くのだから。